1ペテロ 5章

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(7節)

サタンはあなたが一人ぼっちだと信じようとさせます。誰も理解してくれないし、誰も気にもとめていないと信じさせたいのです。しかし、神は理解されています。神は心配されています。気にかけておられます。ですから、神は言われます。

「思いわずらいを、すべて神にゆだねなさい。」(LB)

どんなに私が失敗を繰り返しても、どんな問題を抱えていても、神は私を見放さず、見捨てません。私は一人ぼっちではありません。

「わたしのすべての
心配事を主に委ねます。
どうしていいか分からなくても
委ねます。あなたに。」(リビングプレイズ)

1ペテロ 4章

「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」(11節)

神の偉大さ、寛大な愛の現れとして、神は私たち一人一人に賜物を与えられました。皆、何かしら特別な賜物、才能があるはずです。大事なことは、それらの賜物、才能は、神があがめられるためにあるということです。残念ながら、自分の栄光のために用いている人たちがいます。しかし、使徒パウロは言います。

「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(1コリント4:7)

努力して会得できたものも、神の恵みです。

1ペテロ 3章

「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」(15節)

私たちの信仰は、単なる感情的なものではありません。弁明できる用意をすることができるものだと言います。しかし、誰かに説明することができるためには、学ぶ必要があります。そもそも自分のものとして理解できていなければ、弁明できません。聖書を学ぶことは、自分の信仰を深めるだけでなく、弁明のためにも大切なことです。

「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(1コリント8:1)

ペテロは、16節でこう付け加えます。

「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」

1ペテロ 2章

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(9節)

神が私たちを闇の中から光に召し出されたのは、私たちが神の御業を宣べ伝えるためです。イエス様はご自身を「世の光」(ヨハネ8:12)だと言われました。そして、キリストのからだである教会を「世界の光」(マタイ5:14)と呼ばれました。教会は、暗闇の中で生きる人たちが、キリストへの道を見出すための光となる必要があります。一人でも多くの人の道を照らす存在となる必要があります。教会の輝きは、あくまでもかしらであるキリストの輝きです。ですから、私たちはイエス・キリストを高く掲げる必要があります。イエス・キリストこそ、驚くべき世の光です。

1ペテロ1章

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(6,7節)

試練を通るとき、神は私たちの自然な感情を否定されることはありません。悲しみにくれる時期があります。短い間ですが、私たちは失望して苦しむこともあります。しかし、そのような嘆きの時が終わるとき、私たちは喜ぶことができます。神の約束のゆえに喜ぶことを選ぶことができます。ペテロは、本物の信仰は金よりも尊いものだと言います。金は不純物を除くために、火を通して精錬されます。同じように、神は私たちの人生における不純物を取り除くために火のような試練を許可されます。試練は私たちの信仰を成熟させます。神の働きを喜びましょう。

ハガイ 2章

「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。」(9節)

ハガイの時代に再建された神殿は、彼らが期待するような以前のような建物ではありませんでした。しかし、ハガイはこれからもっと素晴らしくなると言いました。人は建物や思い出に縛られる傾向があります。年を重ねるごとに、「昔は良かった」と思いやすい傾向があります。伝道者の書にもこういう箇所があります。

「昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない。」(7:10新共同訳)

神様は、ノスタルジーの神ではありません。私たちも過去に生きるのではなく、今に、生きることが大切です。これから、もっと素晴らしいことが起こる。「最高は、まだこれから」(The best is yet to come.)と、未来に向かっていくことが大事です。過去にも素晴らしいことがあったように、現在にもすばらしいことがあり、これから後に、もっとすばらしいことが待ち受けています。

ハガイ 1章

「主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。」(14節)

ハガイは捕囚から帰ってきた人々に神殿の再建を成し遂げるように、励ましのメッセージを語るために遣わされた人です。神は当時の指導者たちだけでなく、

「民の残りの者すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。」(新共同訳)

とあります。強要されてではなく、神に霊を奮い立たせられて自発的に働きに携わりました。教会における奉仕も強要されてするものではありません。神が一人一人の霊を奮い立たせて自発的に行うものです。神のため、キリストの体を建て上げるため、何かしたいという思いが起こされたら、ぜひ、お伝えください。

ヤコブ 5章

「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。」(7節)

イエス様は再び来られます。飼い葉おけに寝かされた赤子としてではなく、王の王、主の主として来られます。この地を義をもって治めるために来られます。しかし、この約束が与えられてから二千年経ちました。ペテロはイエス様がまだ来られていない理由をこう解説しました。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Ⅱペテロ3:9)

今は一人でも多くの人が救われるように、神の忍耐の時でもあると。

今日は、グローバル・アウトリーチ・デイ。世界中で伝道の日として福音伝道が展開されています。誰かにイエス様を紹介してみませんか?

ヤコブ 4章

「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(10節)

自分があたかも神のように振る舞うことが、すべての問題の根源であるというのが、この章のメッセージです。わがまま、気ままにやりたいがゆえに、戦いや争いは起こると言うのです。ですから、まず、神の前にへりくだることが大事だと言います。神が良い時に、引き上げてくださるから、自分で自分を引き上げてはいけないと言うのです。引き上げるのは神の役割で、私たちの役割は、へりくだることだと言うのです。膝を屈めた人だけが、立ち上がることができます。神を神として認めることが大切です。神は言われます。

「正しくさばくことのできる方は、律法を定めた神おひとりです。神だけが、私たちを救ったり、滅ぼしたりすることができるのです。それなのに、あなたは何の権威によって人を裁いたり、批判したりするのですか。」(12節LB)

ヤコブ 3章

「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(17節)

「温順」という言葉は、あまり聞かない言葉だと思います。国語辞典には、「おとなしくすなおで、人にさからわないこと」とありますが、LBでは、「独善的でなく、人のことばに喜んで耳を傾けます」と訳しています。ですから、「穏やかな従順」、もしくは、「教えられやすい体質」、「扱われやすい性格」のことだと言う事ができると思います。神様は、私たちに純真、平和、寛容といった品性だけではなく、温順という品性を与えたいと願っています。私たちは学ぼうと思えば、すべての人から、すべての事柄から学ぶことができます。誰からも、何からも学ぶ姿勢をもつことができるのならば、私たちの人生は、必ず豊かになります。