詩篇 141篇

「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。」(5節)

現代人は「傷つきやすい」とか「打たれ弱い」とか言われますが、だからこそ今日の箇所を心に留める必要があります。LBでは、次のように訳しています。

「神様を敬う人のきびしい忠告は、親切心から出たものです。非難されたように感じても、結局は薬となるのです。ですから、拒絶反応を示してしまいませんように。」

教えられやすい心をもつということは、私たちの人生の成長のためには不可欠なものです。しかし、どんなに親切心から出た忠告であっても、非難されているように感じてしまう時もあります。ですから、詩人がそうであったように、

「拒絶反応を示してしまいませんように。」

と祈ることは、大切なことだと思います。

詩篇 140篇

「私は主に申し上げます。「あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。私の主、神、わが救いの力よ。」(6,7節)

 LBでは、こう訳しています。

「ああ、私の救い主であり盾である神様、この祈りに耳を傾けてください。」

天地万物を創造された偉大な神を、私の神、私の救い主、私の盾と呼ぶことができることは、なんという特権でしょうか。しかも私たちは、このお方に祈ることができるのです。ダビデの人生はまさに波乱万丈でした。しかし、そんな彼が生き長らえただけでなく、すばらしい人生を送ることができたのは、彼のこの信仰にあったことは明らかだと思います。私たちもダビデにならって、主を私の神、私の救い主、私の盾と呼ぼうではないでしょうか。私たちの主イエスは、そのために私たちのために十字架にかかり死なれ、よみがえられたのですから。

「私の主、私の神、私の救い主、私の盾なるイエス様、あなたを呼び求めます。」

詩篇 139篇

「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(15,16節)

  この世界に、偶然生まれて来た人は存在しません。この世界に存在するすべての人は、神様が望まれたがゆえに存在しているのです。私たちが母の胎内で構成されている時に、天は喜びに満ちていたのです。主が望まれたから、私たちは母の胎内で形成されていったのです。目を閉じて、主の御手が、母の胎内で自分を形作られている情景を思い浮かべてください。神様は「しまった」などと言うお方ではありません。私たちを形作り、喜ぶ主の御顔を思い浮かべることができるでしょうか。主の目には、私たちの存在は、高価で貴いのです。

「主よ、あなたが私を知ってくださっていることを感謝します。」

詩篇 138篇

「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。」(3節)

   私たちが主を呼び求めるなら、主は私たちの叫びに答え、私たちのたましいに力を与えて強くしてくださいます。LBでは、こう訳しています。

「必ず私の祈りに答えて、力を与え、励ましてくださいます。」

どんなに私たち、日々、力が必要なことでしょう。特に、私たちのたましいに力が必要なことでしょう。その力は、ただ、主から来ます。主を呼び求める時に、主が与えてくださるのです。ですから、今日も主を呼び求めましょう。

「主よ、力を与えてください。」

と。主は、今日も私たちのたましいに力を与え、励ましてくださいます。

 「主よ、疲れている私のたましいに、あなたの力を与えてください。あなたのいのちの息を吹きかけ、励ましてください。」

詩篇 137篇

「エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。」(5節)

  詩人は、バビロンに捕囚され、エルサレムから遠く離れた異国の地にいました。しかし、彼の心はいつもエルサレムにありました。彼にとってのエルサレムとは、単なる故郷ということではありません。エルサレムとは、彼らにとって神の神殿がそこにあった神の臨在を意味しているのです。つまり、エルサレムへの渇望とは、神の臨在への渇望だったのです。私たちはそのような神の臨在に対する渇望があるでしょうか?個人的にも神様は臨んでくださるお方ですが、イエス様は、わたしの名前によって集まる所にわたしもその中にいるとおっしゃられました。(マタイ18:20参照)主の臨在を求めて、主の御名によって集まりましょう。主日礼拝を大切にしましょう。主は臨んでくださいます。

詩篇 136篇

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」(1節)

  「いつくしみ深い」と訳された言葉は、英語の「GOOD」にあてはまる「トーヴ」という言葉です。私たちが信じている神は、「トーヴ」、良い神様です。

私たちは、主に感謝する理由がたくさんあります。しかし、この詩篇では、くりかえしその理由は、

「その恵みはいつまでも絶えることがありません。」(LB)

と言います。原文を直訳しますと、

「なぜならば、主の真実は永遠だから」

となります。私たちの神様は、良い神様であり、永遠に真実なお方です。聖書は言います。

「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』」(エレミヤ31:3)

この「誠実」と訳されたことばが、「恵み」と訳された言葉と同じ言葉です。私達を永遠の愛をもって愛される主は、永遠に真実なお方です。このお方に、共に礼拝を捧げていきましょう!

詩篇 135篇

「まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。」(5節)

私たちが信じている神様は、大いなる方、偉大なる神です。私たちの問題よりも大きな神です。私たちの思いをはるかに超えて偉大なる事をなされる神です。私たちは、自分たちで自分の神を造ってしまっていないでしょうか。15-17節にあるように、自分で作った神は、自分の考えられる範囲内でしかない存在です。まことの神は、聖書の神は、私たちを造られた創造主なる神です。無から有を生じさせる神です。たとえ今、暗闇しか見えなくても、「光あれ!」と光を灯すことができる神なのです。道が見えなくても、道を造ってくださる神なのです。私たちは、この大いなる方を、大いなる方として、認め、賛美しましょう!

 「偉大なる主よ、あなたをあがめます。あなたこそ大いなる方、創造主なる神です!」

詩篇 134篇

「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。」(2節)

 神さまに賛美をささげる方法の一つは、手を上げることです。手を上げて賛美するのは、聖書が教える方法の一つです。どうして手を上げるか、いろいろな説があります。私たちが両手を上げる時、それは、降参を意味します。ですから、絶対者なる神様に降参して、すべてを明け渡すことを象徴して手を上げるのです。私たちの人生には自分の力ではどうしようもないことがたくさんあります。神様のまえに両手を上げて、「主よ、臨んでください!」と叫ぶ時、実は、私たちは神様を神様として認めていることと同じことなのです。つまり、神を神として崇めているのと同じなのです。両手を上げて、神様を賛美しませんか?

「主よ、あなただけが私を満たしてくださる方です。あなたの前に、両手を上げます。ほめたたえます。」

詩篇 133篇

「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことはなんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(1‐3節)

 集まるということは、キリスト教が成立した当初から大切にされてきていることです。信仰は個人的な側面がありますが、集まるということを過小評価するのは聖書的ではありません。私たちがイエス・キリストにあって集まるそのところに、神様はとこしえのいのちの祝福を命じられるとあります。ここに、私たちの理解を超えた世界があります。だから聖書は言います。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

詩篇 131篇

「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」(2節)

  LBでは、「乳離れした幼児のように、神様の前でおとなしくしています。もう、あれこれ願い事を並べ立てるのはやめにしました。」と訳しています。これは、幼児がお母さんの存在が感じられるその所で完全に満足しきっている状況を現しています。私たちもまた、神様の臨在の中で、同じように満足することができます。そして、これが神様への完全な信頼へ導きます。実際に、3節で、こうまとめています。

「いつまでも、静かに神様に信頼していなさい。」(LB)

生ける神の臨在は、神様への完全な信頼に私達を導いてくださいます。ですから、今日も、生ける神、主イエス・キリストの臨在を求めましょう。イエス様の臨在の中で、私たちは本当の満足を得ることができるのですから。

「主よ、満たしてください。」