詩篇 18篇

「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた」(6節)

この箇所は、ダビデが晩年、自分の生涯を回顧して記した詩篇だと言われています。彼の人生は、危険の連続でした。サウル王に命を狙われたり、息子のアブサロムに命を狙われたり。また、ダビデが洞窟の中に隠れていた時に集まってきてくれた人々は、不満を抱いている人たちの集まりみたいなものでした。しかし、そんな中で彼は、人生の秘訣を見つけ出しました。それは、祈るということでした。壁にぶつかった時、クリスチャンは祈ります。祈ることができるということは、幸せだと思います。もちろん、苦しみの中でなくても、祈ることは大事なことですが、人は、なかなか、追い込まれないと祈れないところがあるのもまた事実だと思います。祈りに追い込まれることは神様が本当に生きておられるということを体験するチャンスでもあります。

詩篇 17篇

「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」(15節)

LBでこう訳しています。

「しかし、私の関心は富にはなく、神様を見ているかどうか、また、神様との間がうまくいっているかどうかにあります。天で私が目覚める時、この上ない満足感にひたるでしょう。神様のみ顔をじかに見るからです。」

私たちのこの世での人生は、この地上の利得に心を奪われるか、それとも、神様を喜びとして生きていくかで、大きく変わっていきます。神様を自分の喜びとして生きていくならば、この世においても、もちろん楽しみを与えてくれるだけでなく、やがて、天の御国に着くとき、「この上ない満足感にひた」ります。ジョン・ストット牧師はこのように言っています。

「地上には大切な義務がありますが、自分が誰であるか、どこに向かっているのかを忘れるほど、そんなものに心を奪われてはいけません。」

信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離すことがありませんように。

詩篇 16篇

「私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。」(7節)

助言を求められた時、まことの助言者である主に求めるように励ますならば、神が語ってくださるという世界を体験できると思います。加藤常昭先生がこんなことを言っています。

「今の若い人たちは聖書を読まないとか、聖書は難しいとか、古い時代の文書であるとか、そう言われているけれども、そんなことはないんだ。今の人たちがなぜ聖書から遠ざかってしまったかというと、今の若者たちに責任があるのではなくて、我々神学者に責任がある。我々神学者がどうしているかというと、『あなたがた素人は、我々専門家が説明をしないと聖書がわからない人たちだ』と言っている。だから、聖書のある箇所を読んでも、そういう考えを植え付けられている人たちは、これについて専門家が語っている文章を読まないとわからない。」 

牧師でなくても、専門的な教育を受けていなくても、日々、聖書を開くならば、神様が必ず、私たちに語ってくださいます。

詩篇 15篇

「このように行なう人は、決してゆるがされない。」(5節)

 詩人は、

「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。」(1節)

と、神に奉仕する者の資格を挙げています。

「それは、非の打ちどころがない生活を送る、誠実そのものの人です。口が裂けても人を中傷せず、うわさ話に耳を貸さず、決して隣人を傷つけたりしない人です。」(2,3節)

耳の痛い言葉が続きますが、リック・ウォーレン牧師がこんなことを言っています。

「もし本気で自分の人生を変えたいと願うなら、聖書に向かわなければなりません。聖書を読み、学び、暗記し、黙想し、適用する必要があります。」

ローマ12:2にこうあります。

「この世の型にはまり込んでしまわないように気をつけなさい。むしろ、自分の心の態度がすべて変わるように、自分自身を神に造り変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころが良いもので、受け入れられ、完全であることを、あなた自身が身をもって証明するようになるのです。」(フィリップス訳)

詩篇 14篇

「愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。」(1節)

 聖書は「神はいない」という態度が、すべての問題の根源だと教えています。メディアは「宗教」が恐ろしいと洗脳しますが、「神はいない」という思想の下で、多くの血が、中国、ソ連、北朝鮮といった共産圏でも流されてきたことを忘れてはいけないと思います。人間を造られた創造主を否定して、すべてを偶然だと片付けてしまいますと、人間の尊厳も、存在意義も見失われててしまいます。神を恐れない人は、「人々をファスト・フードのように扱う」(4節MSG)ことも平気になってしまいます。榎本先生がこんなことを言っています。

「私たちは、言葉では『神はない』とは言わないかもしれない。しかし本当に神があるということを『心の中』、いわゆる自分の存在を賭けて言っているだろうか。」

自分の存在を賭けて、主を呼び求めることができますように。

詩篇 12篇

「主よ。お救いください。」(1節)

ここに、力強い祈りの言葉があります。ここで使われている、「お救いください」という言葉に、「お願いします」という意味の「ナ」を付け加えると、「ホサナ」になります。イエス様がエルサレムにロバの子に乗って入城するときに、人々が「ホサナ!」と叫んだと記されていますが、「お救いください。お願いします!」という意味があります。「お救いください」とも訳せますが、「主よ。助けてください。」とも訳すことができます。マタイ14章でペテロが溺れたとき、叫んだ祈りがこの祈りです。

「主よ。助けてください。」

イエス様は、この叫びを聞かれて、「すぐに手を伸ばして、彼をつかん」だとあります。追い詰められた時、「主よ。助けてください。」と主を呼び求める時、私たちは神様の現実を体験することができます。ちいろば先生こと榎本保郎先生はこう勧めます。

「よく『神様が分からない。神様が分からない』と言う人がいますが、…神様の言葉に聴き従って御覧なさい。」

詩篇 11篇

「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」(7節)

 1節から3節まで、詩人はこの地上の混乱に関して言及します。

「『法も秩序もあったものじゃない。こうなれば、正しい者は逃げるより手がない』と、人々は言います。」(3節LB)

しかし、詩人はその視点を地上から天に移します。

「しかし、主はいぜんとして聖なる宮に住み、天から何もかも支配しておられます。地上での出来事をことごとく監視しておられます。」(4節LB)

神は確かに今生きておられ、すべては神の御手の中にあります。旧約聖書に出てくるヨセフは、こんなことを言います。

「あなたがたは私に対して災いを企てましたが、じつは、幸いをもたらすために神がそのことを企てられたのです。」(創世記50:20岩波)

目の前の出来事がどんなに災いに見えても、神は幸いをもたらすために用いられるというのです。ですから、詩人のように、地上ではなく、神を見上げて生きる必要があります。

詩篇 10篇

「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや、脅かすことができないように。」(17、18節)

  リビングバイブルでは、こう訳しています。

「主よ。あなたは謙そんな人の望みが何であるか、ご存じです。必ずその叫びを聞いて救いの手を差し伸べ、心に安らぎを与えてくださいます。主はみなしごや虐待されている人たちのそば近くにいてくださるお方です。おかげで彼らは、この世の人間から、二度と脅かされることはありません。」

1節では、詩人は神を遠く感じていました。苦しみのときに、神の不在を感じていました。しかし、最終的に神が実はそば近くにいてくださるお方であることを確信します。詩人を確信に導いたのは、「祈り」であることを心に留めたいと思います。

詩篇 9篇

「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」(10節)

  主は、主に拠り頼む者をお見捨てになるような方ではありません。しかし、私たちは時々揺らいでしまうことがあります。揺るがない信仰生活のためには、主の御名を知る必要があります。主の御名は、聖書の中に散りばめられています。

「エル・シャダイ」という御名は「全能の神」という意味です。

「ヤハウェ・ラファ」は「いやし主」。

「ヤハウェ・シャローム」は「平和の主」。

「ヤハウェ・シャマー」は、「ここにおられる主」。

「ヤハウェ・イルエ」は「備え主」。

つまり、私たちがより頼むお方は、全能であり、いやし、平安を与え、共におられ、私たちの必要を備えてくださるお方だというのです。このお方を、知識としてだけでなく、体験していきましょう。

「主よ、ますますあなたの御名を体験させてください。そして、ますますあなたにより頼む者としてください。」