ローマ 12章

「私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、」(12:6)

教会は一つの器官がすべての機能を果たすようにはなっていません。

牧師一人で何とかなるものではありません。

神はあえて異なる賜物をそれぞれに与えられました。

私たちは謙遜に互いが必要であることを認める必要があります。

ですから、お互いの欠けているところを責め合うのではなく、補い合うことによって教会は健全に機能するようになっていきます。

私たちが成長する中で培われてきた能力も、神が与えてくださった賜物だと言えます。

自分で努力して会得したものであったとしても、その機会が与えられたことも、神の恵みの世界だからです。

神の霊が臨まれて、今まで考えもしなかった新しい賜物が与えられるということもあります。

いずれにせよ、与えられた神の恵みにしたがって、神の賜物を用いていくことができますように。

ローマ 11章

「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(11:36)

すべてのものは神によって存在しています。

すべてのものの起源は、天地万物の造り主、神にあります。

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)

神が造られなければ、すべてのものは存在していません。

そして、今、すべてのものは、神の支えがあって存在しています。

酸素があることも、太陽が昇ることも、地球が自転したり、公転したりすることも、すべて絶妙なバランスで世界は存在しているのです。

そして、すべてのものは、神のために存在しています。

すべてのものの最終的ゴール、目的は、神に栄光を帰すことです。

すべてのものは神のために存在しています。

造られた者の最終目標は、神の栄光を現わすことです。

Soli Deo Gloria!

ローマ 10章

「律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。」(10:4)

第三版まで

「キリストが律法を終わらせられた」

と訳されていました。

「終わらせられた」という単語は「テロス」という単語が使われています。

この単語は、徒競走の「ゴール」と同じような意味があります。

徒競走のゴールは、そのレースの完了という意味があります。

ですから、「キリストが律法」の「テロス」という意味には、「キリストが律法を完了した、成し遂げた」という意味があります。

同時にゴールは、レースの目標地点であり、目的でもあります。

ですから「キリストが律法」の「テロス」という意味には、「キリストが律法の目標、目的」だったという意味があります。

キリストが私たちのために、十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえり、天に昇り、栄光の御座に着座され、信じる者に聖霊を与えられたことにより、旧約聖書が指し示していた内容が成就したということです。

ローマ 9章

「しかし、神のことばは無効になったわけではありません。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。」(9:6)

イスラエル民族に生まれた者がみな、「イスラエル」という意味ではないと言います。

「イスラエル民族」の選びが無効にされて、「イスラエル民族」に置き換わって「キリスト教会」が選ばれたという意味ではありません。

神の選びというのは、最初から一つの民族に限定されたものではなかったということがここで論じられている内容です。

アブラハムの血族だからアブラハムの子孫になるわけではなく、神が約束したから、イサクはアブラハムの子孫になったということを示し、血筋より、約束が優先されている事を示します。

つまり神のご計画がだめになったわけでもなければ、変更したわけでもありません。

イエス・キリストの十字架の死と復活は神のことばを成就したという事です。

ローマ 8章

「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」(8:37)

私たちを愛してくださった方によって」、

すなわち、イエス・キリストの十字架の御業に現された神の愛によって、私たちは圧倒的な勝利者だと聖書は言います。

ウィンストン・チャーチルの成功の定義は、

「熱心さを失うことなく、失敗から失敗に進むこと」

だと言います。

どんな状況の中にあっても、失敗から失敗に進んでいるように見えたとしても、イエス・キリストにあって、

熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕えて」(12:11)

いるならば、成功しているということだと思います。

大事な点は

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。」(26節)

権力によらず、能力によらず、神の霊によって、勝利者以上だと聖書は言います。

神の愛から私たちを引き離すことが出来るものは何一つありません。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ローマ 7章

「しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(7:6)

水のバプテスマを受けた者は、古い人がキリスト共に死んだことによって、

モーセの律法との結びつきからも解き放たれた

と言います。

これは、聖書を勉強しなくてもいいという意味ではありません。

ダグラス・スチュワートという旧約学者はこんな指摘をしています。

キリスト者が旧約聖書を学ぶ上で大事なことは

「旧約聖書律法をあなたに対する神の直接命令とはみないこと」。

たとえば、旧約聖書に豚肉を食べてはいけないと書いてあるから、豚肉を食べてはいけないという発想は、パウロがここで否定している内容です。

「モーセの律法」に象徴される「古い契約」ではなく、キリストと共に死んだ今、「御霊に生きる」という「新しい契約」キリストにある新しい命に生きるようにということです。

ローマ 6章

「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」(6:11)

3節を直訳するとこうなります。

あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中にバプテスマされた私たちは皆、彼の死の中にバプテスマされたのです。

クリスチャンになるためには、水のバプテスマを受けます。

これは、キリストと共に死に、キリストと共によみがえることを意味します。

初代教会の時から大切にされてきた儀式です。

もっともパウロは、儀式以上の意味を伝えます。

キリスト・イエスの中にバプテスマされることはキリストの死の中に入れられたのと同じことだと言うのです。

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:20)

ローマ 5章

「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」(5:6)

LBでは6節をこのように訳しています。

「私たちが逃れる道もなく、行き詰まっていた時、キリストはおいでになり、何のとりえもない、私たち罪人のために死んでくださいました。」

私たちが何か優れているから代わりに死んだという話ではありません。

どうすることもできなくなった私たちのために、神が主導権をもって、御子イエス・キリストを遣わし、私たちのために死んでくださったということです。

イエス・キリストが私たちのために十字架で死んでくださった

というこの大前提から、3つのポイントをパウロはここで指摘します。

一つ目は、神は私たちを愛しておられること。

二つ目は、キリストを信じる者を神の契約の家族の一員とされたこと。

三つ目は、キリストを信じる者は新しい身分を受けて神のものとされたということです。

ローマ 4章

「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ」(4:18)

「望み得ない」という言葉は「παρα」という前置詞がついています。

これは、「反して」「反対に」という意味があります。

ですから、「希望に反して」と訳すことができます。

望めないどころか、反対されているような状況を意味しています。

さらに、この前置詞は、「超えて」(beyond)という意味があります。

「希望を超えて」と訳すことができます。

つまり、アブラハムが「自らの力で望み続けた」というレベルを超えたところでの「希望」という意味です。

LBではこんな訳をしています。

そんな約束はとうてい実現するとは思えなかったにもかかわらず、神を信じました。

状況に絶望し、他者に絶望し、自分にも絶望し、さらに、神にさえも絶望してしまったその先にある「希望を超えた希望」、信心深さや努力を超えたところにある「神の信実」のゆえに、「神の契約の家族として数え入れられる信仰」があります。

ローマ 3章

「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。」(3:25)

「宥めのささげ物」と訳された単語は、「恵みの座」(Mercy Seat)とも訳される「契約の箱の蓋」という意味があります。

つまり、父なる神は、イエス・キリストを「恵みの座」としてこの世界に示されたということです。

すべての人は罪を犯し、神のかたちとして造られたのにも関わらず、神の栄光を反映することができない状態にあります。

だから、神はひとり子イエス・キリストを与えてくださいました。

イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、死んでくださいました。

イエス・キリストの十字架は、この世界に恵みの座を示しました。

誰でも、イエス・キリストを信じるならば、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、罪赦され、神の家族の一員とされます。

折にかなった助けを受け、神のかたちを回復していきます。