1サムエル 17:12-27

「ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来た。ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。」(17:23)

ダビデは父から兄たちの安否を確認するために戦地に遣わされただけでした。

ところがちょうどその時、ゴリヤテの言葉を聞きました。

そして、イスラエルの人々がゴリヤテを見て、彼の前から逃げ、非常に恐れていた姿を見ました。

ダビデには主の霊が激しく下って(16:13)いましたから、彼の反応は他の人たちとは異なっていました。

ダビデは言います。

「全く、生ける神様の軍をなぶりものにするなんて! いったい、あの、神様を知らないペリシテ人は何者ですか。」(26節LB)

使徒パウロも言いました。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

これが聖霊に満たされた人の生き方です。

1サムエル 17:1-11

「サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。」(17:11)

ペリシテ人の代表戦士、ゴリヤテは、身長二・七メートル以上、身につけたその武具は六八・五キロという桁外れたものでした。

しかし、イスラエルの民の一番の問題は、このペリシテ人の言葉を聞き、気をくじかれて非常に恐れていたことです。

彼らが聞くべきは、ペリシテ人のことばではなく、神のことばでした。

私たちも誰の言葉を聞いているでしょうか。

ゴリヤテのような目の前にある問題に集中し、その言葉にしか聞く耳がなければ、私たちは恐れにより失望するしかありません。

私たちが聞くべきは、ゴリヤテよりもさらに偉大な力ある神です。

神の御声に耳を傾けるならば、勇気が与えられ、希望が与えられます。

1サムエル 16:14-23

「神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手に取って弾いた。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。」(16:23)

わざわいをもたらす、神の霊」(15節)

という表現は、矛盾して聞こえます。

これは、「わざわいの霊」も神の許可なく何もできないということです。

ダビデが竪琴を弾くときに、わざわいの霊が離れ去ったのは、主がダビデと共にいたからです。

主の霊がダビデの上に激しく下っていたからです。

神を愛するダビデの竪琴は、神への賛美だったと思われます。

信仰者が奏でる賛美には悪霊を追い出す力があります。

元気を回復する力があります。

日々の生活の中で賛美の歌を流すことは、霊的にも意味があることです。

1サムエル 16:1-13

「主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」」(16:7)

サウルのことで悲しんでいたサムエルに、新しい王に油を注ぐようにと神は命じます。

神のご計画は人の罪によって破綻することはありません。

ただ神の選びは人が求める人間像とは違います。

この世は、外見や能力、資格などを見ます。

しかし、神は心を見ます。

謙遜に、神を愛し、神のみこころを第一とする人を求めています。

この世界のすべての問題を解決する能力が求められているわけではありません。

ただ、神のみこころに生きようとするその心が求められています。

※ 今日は教会の暦では灰の水曜日。今日からイースター(復活祭)前日までの40日間(日曜日を除く)をレント(四旬節)と呼び、イエス様が十字架に至るまでの苦難の道を思い起こします。

1サムエル 15:24-35

「サムエルは死ぬ日まで、再びサウルを見ることはなかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」(15:35)

サウル王は

私は罪を犯しました。」(24節)

と口先では言いました。

しかし、悔い改めたわけではありませんでした。

彼は続けてこう言います。

兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い」。

つまり、サウル王は兵のせいにしたのです。

悪いのは自分ではなく兵だと。

さらにサウル王が気にしていたのは自分の体裁でした。

私が間違っていました。しかし、どうか今、民と指導者たちとの前で私の面目をつぶさないでください。」(30節LB)

そんなサウル王の姿を見て、サムエルは死ぬ日まで悲しみ、主も悔やまれたと言います。

聖書は言います。

あなたがお望みなのは、悔い改めて、くずおれたたましいです。ああ神よ。罪を深く後悔して砕かれた心にこそ、あなたは目を留めてくださるのです。」(詩51:7LB)

1サムエル 15:10-23

「サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(15:22)

歴史的にこの十五章の重要性は、ヤハウェなる神と預言者サムエルが、どうしてサウル王を拒絶されたかが説明しているところにあります。

神学的には22節以下の「神に従うこと」と「神に捧げること」の価値を相対化させているところが重要です。

神の御言葉を自分勝手に解釈し、その真意を無視し、罪を犯したままでも神は見逃してくれるとは聖書は言いません。

神殿に行っていけにえを捧げたら罪は赦されるとは聖書は言いません。

聖書は、

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(1ヨハネ1:9)

人は自分の罪を認め、悔い改める必要があります。

1サムエル 15:1-9

「サウルとその兵たちは、アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである。」(15:9)

旧約聖書を読む上で「聖絶」ほど難しい概念はないと思います。

それは、「神の審判」のもとにあり、それゆえに徹底的に破壊する、削除することが求められます。

この箇所では、これが単なる略奪行為の戦争ではないことを印象付けるために、戦利品を取ってはいけないと命じられました。

ところが、サウル王もその兵たちも、無価値なものだけを聖絶し、良いものは持ち帰ったとあります。

いつの時代も問題の根源にあるのは、自分たちの価値基準で物事を裁いてしてしまうことです。

神の目には無価値なものはありません。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

1サムエル 14:36-52

「民はサウルに言った。「この大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはあり得ません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。今日、あの方は神とともにこれをなさったのです。」こうして民がヨナタンを救ったので、彼は死ななかった。」(14:45)

サウル王の自分勝手な誓いのゆえに、息子ヨナタンは死を宣告されました。

しかし民は、

「今日の目ざましい働きは、神様に用いられている証拠ではありませんか。」(LB)

と反発し、ヨナタンを救いました。

神が共におられなかったら、こんなことは起こらなかったと。

「救った」と訳された単語は「贖う」という意味があります。

ヨナタンの代わりに動物を犠牲として捧げたという意味かもしれません。

いずれにせよ、王としての体面を守ろうとしたサウル王も、民の声には抗うことができませんでした。

1サムエル 14:24-35

「さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。」(14:24)

サウル王の無謀な断食命令が勝利を限定的なものとしてしまいました。

神のみこころを求めず、身勝手に自分の熱心さだけで、神を操ろうとする行為は、混乱をもたらします。

神の勝利は、人間の宗教的熱心によって引き出せるものではありません。

それは高慢以外の何ものでもありません。

サウル王の愚かな断食命令のゆえに、民は苦しみ、殊勲の息子のヨナタンも罪を犯したことになってしまいます。

謙遜に神のみこころを求め、神の命令に従う信仰こそ、私たちが求めるべき姿です。

1サムエル 14:1-23

「多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」(14:6)

サウル王が直面していた現実、それは、ペリシテ人の海辺のように数多くの兵、戦車三万、騎兵六千に対して、自軍は六〇〇人。

しかし、サウルの息子ヨナタンにとっての現実は、状況よりも偉大な神でした。

実際、神は地震(15節)という超自然的な力でイスラエルの民を救いました。

「その日、主はイスラエルを救われた。」(23節)

人にはできないことも、神にできないことはありません。

私たちに求められていることは、偉大な神を信頼することです。

主は今も生きて働いておられます。