哀歌 2:1-10

「主は、その祭壇を拒み、聖所を退け、その宮殿の城壁を敵の手に引き渡された。例祭の日のように、彼らは主の宮で声をあげた。」(2:7)

礼拝をないがしろにすることは、神ご自身をないがしろにすることです。

LBではこの箇所をこのように訳しています。

主はご自分の祭壇から顔を背けました。形ばかりの礼拝に失望したからです。主は宮殿を敵の手に渡しました。彼らは、例祭の日にイスラエル人がしたように、神殿で飲み騒ぎました。

イスラエルの民の誤解は、神殿があるから、形式的でも例祭を守っているから大丈夫だと考えていたことです。

神は、罪を悔い改めて、神に立ち返らない民に対して、敵対されると言います。

神はご自分の民に向けて、まるで敵でもあるかのように弓を引きます。」(4節LB)

私たちは健全な畏れをもって主に立ち返る必要があります。

罪を選ぶことは、神に敵対することです。

神に敵対して良いことは何もありません。

哀歌 1:18-22

「主は正しい方である。しかし、私は主の命令に逆らった。すべての国々の民よ、聞け。私の苦痛を見よ。若い女たちも、若い男たちも、捕らわれの身となって行った。」(1:18)

「主は正しい」方ですから、罪を罰せずに済ませることはできませんでした。

だから、神はそのひとり子、イエス・キリストを与えてくださいました。

イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって、あの十字架にかかり、死んでくださいました。

イエス・キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためです。

そして、イエス様は、死という絶望を打ち破り、よみがえられました。

私たちは十字架を見上げ、イエス・キリストを信じる者の希望が、失望に終わることはないことを思い起こす必要があります。

「主は正しい」お方です。

哀歌 1:12-17

「これらのことで、私は泣いている。私の目、この目から涙があふれる。元気づけ、慰めてくれる者が、私から遠く離れたからだ。敵に圧倒されて、私の子らは啞然とする。」(1:16)

 エレミヤは涙の預言者と言われます。

ただ、哀歌は共同体的です。

個人的な嘆きが、共同体の嘆きに組み込まれています。

これは哀歌だけでなく、聖書的です。

個人的な苦しみを共同体として共有することは聖書的です。

聖書は言います。

「泣いている者たちとともに泣きなさい。」(ローマ12:15)

共に泣くことを通して、この苦しみが何かを意味するものであることを人は共有します。

しかし、「私の魂を心配してくれる人が周囲に一人もいない場合」(MSG)、苦しみは意味を失ってしまいます。

苦難に対処するための聖書的な方法は、個人的なものを、集団的なものに変換することです。

ですから教会として、祈祷課題を挙げて共に祈り合うことは互いに重要なことです。

哀歌 1:1-11

「ああ、ひとり寂しく座っている。人で満ちていた都が。彼女はやもめのようになった。国々の間で力に満ちていた者、もろもろの州の女王が、苦役に服することになった。」(1:1)

哀歌のヘブル語のタイトルは、一節の最初の一文字をとって「ああ」です。

これは預言者エレミヤのエルサレムの陥落に対する嘆きです。

「ああ、どうして。にぎやかな街だったのに、ゴーストタウンになってしまった。」

彼は四〇年間、人々に神に立ち返るようにメッセージし続けました。

しかし、人々は彼の言葉に耳を傾けることなく、エルサレムは陥落しました。

哀歌は、一章から四章まで、アクロスティックと呼ばれる、アルファベト詩になっています。

ヘブル語のアルファベットは二十二個しかありません。

二十二個使ったら終わりです。

つまり、悲しみも苦しみも、永遠ではない、必ず終わりがあるということです。

永遠なのは神の愛とあわれみだけです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

テトス 3:1-15

「また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。」(3:2)

神の民のあるべき姿を聖書は明確に述べています。

「侮辱しない、争わない。 神の民は大らかで礼儀正しくあるべきだ。」(MSG)

神は一人一人を異なる人格として造られました。

ですから、互いの違いを認めることは大切なことです。

少なくとも、互いに礼儀正しく接することはできます。

イエス様は言われました。

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35新共同訳)

神の民は、キリストの愛によって共に生きることを学ばなければなりません。

それが福音宣教となります。

そのためには、私たちは信仰をもって天を見上げ、愛をもって外を見る必要があります。

「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(エペソ4:32)

テトス 2:1-15

「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」(2:13)

「祝福に満ちた望み」とは、この世界の終わりにイエス・キリストが再び来られる(再臨)ことです。

聖書は言います。

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」(2ペテロ3:9,10)

キリスト教会は2千年の間、キリストが再び来られることを信じて歩んでいます。

少なくとも、2千年前よりも今は、その日に近い時に生きています。

まだ、その日が来ていない理由は、神がだれも滅びることを望まないからです。

だから、福音を伝え、人々が救われることは、神のみこころです。

テトス 1:1-16

「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。」(1:9)

今年のリーダーシップカンファレンスの中でアルファのニッキー先生が混合主義(シンクレティズム)の危険性に言及していました。

こちらからメッセージを聞けます。英語です。)

私たちが伝える福音は変わらない聖書のメッセージです。

イエス・キリストのメッセージです。

その時代に応じて包装紙は変えても、中身は変えてはいけません。

私たちは聖書の御言葉をしっかりと守っていなければなりません。

教会は聖書の健全な教えに反対する教えには断固とした態度をとる必要があります。

2サムエル24:15-25

「その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「上って行って、エブス人アラウナの打ち場に、主のために祭壇を築きなさい。」」(24:18)

「アラウナの打ち場」、それは滅ぼす御使いが手を引いた場所でした。(16節)

その場所に祭壇を築くことをダビデは命じられました。

それは、礼拝はすべての人に、王にも要求されているということです。

ダビデが「費用もかけずに、私の神、主に全焼のささげ物を献げたくはない。」(24節)と言ったように、代価なしの礼拝は価値のないものとなってしまいます。

ダビデは正当な代金を払ってその地を買い、いけにえを捧げました。

後日、この場所に神殿が建てられます。

聖書は言います。

主が、この国のための祈りに心を動かされたので、イスラエルへの主の罰は終わった。」(24:25)

2サムエル 24:1-14

「さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と。」(24:1)

人口調査をしたことがどうして罪なのか明確に記されていません。

報告が軍事力という観点からされていることから、王の傲慢さの罪だと考えられています。

神よりも兵力に頼ろうとする不信仰な態度が罪とされたと考えられます。

もっとも、「ダビデをそそのかして」とあることから、その背後に民の罪を指摘する学者もいます。

民の罪のゆえに、民を罰するために、ダビデを動かしたというのです。

いずれにせよ、罪は罰を免れることはありません。

だから、イエス・キリストは人となり、十字架にかかり、死ぬ必要がありました。

「神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8:3)

2サムエル 23:13-39

「三人の勇士はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、」(23:16)

ダビデの勇士たち三〇人のリストです。

ダビデの活躍の背後にはこれらの勇士たちの存在がありました。

偉大な説教者の背後にも、ダビデの勇士たちのような祈りの勇士たちの存在があります。

E.M.バウンズは言います。

「真の使徒的説教者は、自分の伝道に完全な成功をもたらすために他の信仰深い人々からの祈りが必要であることも、パウロの例から分かります。彼は、神の聖徒たちからの助けを必要として、熱く懇願しました。(中略)彼は彼らの祈りがどうしても必要でした。」

祈りは霊的な戦いです。

また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」(エペソ6:19)