ヘブル 4:1-11

「こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。」(4:1)

聖書は「神の安息」を約束しています。

それは神の平安に入っていく安息であり、約束の地に入っていく安息です。

また、神が創造の御業を完成した時の安息です。

ただ、「この安息に入るように努めようではありませんか。」(11節)とあるように、万が一にも入れないようなことがないように、「恐れる心」を持たなければならないと言います。

神を恐れることが知識のはじめです。

FFブルースという聖書学者は、このように言っています。

「神を甘く考えてはいけません。神のことばは、とがめなく、無視することはできません。信仰によって受け止め、日々の生活の中で従わなければなりません。」

ヘブル 3:12-19

「兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」(3:12)

不信仰は生ける神との関係を断ち切ってしまう刃物のようなものです。

枝が木から切り離されてしまったら枯れてしまうように、生ける神から離れるならば、人は霊的に死んでしまいます。

そのことを防ぐために、聖書は3つのことを進めています。

一つ目は、気をつけることです。

LBは、「自分の心を見張りなさい。」と訳しています。

二つ目は、互いに励ましあうことです。(13節)

たとえ自分がその必要性を感じなくても、誰かのために、共に集まり、祈りあうことは大事なことです。

三つ目は、堅忍です。

聖書に対する確信を失った瞬間に信仰は堕落していきます。

もし私たちが、初めてキリストを信じた時と同じ気持ちで神に信頼し、最後まで忠実であれば、キリストにある祝福を受けることができるのです。」(14節LB)

ヘブル 3:1-11

「ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(3:1)

キリスト者であるならば、「イエスのことを考えなさい」と言います。

イエス様をまず、「使徒」として考えなさいと言います。

「使徒」は神から遣わされた人という意味があります。

それはイザヤが預言した「メシア」として考えなさいということです。

神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。」(イザヤ61:1)

さらに、イエス様を「大祭司」として考えなさいと言います。

「大祭司」は神と人との間をとりなす存在です。

イエス・キリストは、人が神に近づくことができるように、すべての人の罪のために十字架にかかり死なれました。

イエス様は完全な神であり、完全な人となられましたから、「使徒」であり「大祭司」です。

ヘブル 2:10-18

「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(2:14,15)

神のひとり子、イエス・キリストがどうして人となって十字架にかかり、死ななければならなかったかがここでまとめられています。

悪魔は死の力を持っていました。

そのため、人は死の恐怖のゆえに不安に縛られて生きていました。

イエス様はその状態から人々を解放するため、十字架で死なれました。

悪魔の力はイエス様の十字架の死によって滅ぼされました。

ですから、今、イエス様を信じる者は、死の恐怖から解放されています。

これだけが、一生涯死の恐怖の奴隷となっている人間を救い出す方法だったのです。」(15節LB)

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 2:1-9

「こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。」(2:1)

どんなに信仰生活が長くても、聖書のメッセージをしっかりと心に留めることを怠るようになると真理から離れて漂流することになります。

ここでは、モーセの律法とイエス・キリストの福音が比較されています。

モーセの律法は天使を通して語られました。

しかし、イエス・キリストの福音は、神の御子、イエス様が自ら直接語ってくださいました。

モーセの律法に従わなかった人たちは罰せられました。

そうであれば、なおさらのこと、イエス様の救いの福音を無視した人たちは、罰を逃れられるはずはありません。

ブルース教授は言います。

「福音の真理と教えを軽く取り扱ってはなりません。それは最も重要であり、いのちと死の問題とも直結しています。」

ヘブル 1:1-14

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」(1:3)

「神の本質の完全な現れ」の「現れ」と訳された単語は、英語の「キャラクター」の語源となった単語で、刻印、彫ってできた型、印という意味があります。

父なる神の本質と栄光が、子なる神の人間としての性質に正確に再現されたということです。

神は長い間、いろいろな形でご自身を現されてきましたが、今や、正確な現れを与えられたと言います。

聖書の歴史の全体は、イエス様を頂点にして読むようにできているということです。

だから、私たちは信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないようにと言われています。

使徒 28:23-31

「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(28:30,31)

使徒の働きの最後に、教会のあるべき姿を見ることができます。

「訪ねて来る人たちをみな迎えて」とあるように、教会はオープンである必要があります。

特定の人だけでなく、すべての人に開かれ、すべての人を歓迎する必要があります。

ただし、教会は「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え」る場所でなければなりません。

教会がイエス・キリストのことを教えないならば、それはもう教会とは呼べません。

「神の国」、すなわち、神の統治を認めないならば、教会とは呼べません。

要するに神の言葉である聖書が最高権威でなければ、教会とは呼べません。

使徒の働きはここで終わりますが、教会は継続しています。

私たちは使徒二九章の教会だからです。

使徒 28:11-22

「その町で、私たちは兄弟たちを見つけ、勧められるままに彼らのところに七日間滞在した。こうして、私たちはローマにやって来た。」(28:14)

パウロはプテオリという町に入港し、その町でキリスト者を見つけたと言います。

プテオリは今のナポリの辺りにある港町で、そのすぐ近くにポンペイもあります。

この時、ポンペイにもキリスト者がいたことが分かっています。

福音はパウロが来る前から伝えられていました。

そして、この後、ローマからもキリスト者がパウロたちを迎えに来たとあります。

パウロはローマに来る前にローマ人への手紙を書いていました。

つまり、ローマ人への手紙を読んだキリスト者がパウロを迎えに来たというのです。

パウロがどんなに励まされたか分かりません。

パウロは「勇気づけられた」(15節)と言います。

ローマの教会もパウロが行く前から存在していました。

神の働きには多様性があります。

使徒 28:1-10

「しかし、パウロはその生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。」(28:5)

パウロたちの船は浅瀬に乗り上げ、座礁します。

百人隊長は、パウロを助けるために、泳いで陸に渡るように言います。

そして、全員が無事に陸に上がりました。

島の人々は、火をたいて迎えてくれました。

パウロも、自ら枯れ枝を集めて火にくべました。

すると、マムシが出てきてパウロの手に噛みつきました。

パウロがマムシに噛まれたのを見た人たちは、最初、パウロを呪われた人のように見ていました。

ところが、何の害も受けないのを見て、「神様だ」と言い出します。

私たちの現実生活の中にマムシが出てきて、私たちに噛みついて、私たちの人生をダメにしようとすることがあります。

私たちは、寝ても覚めても悪霊を追い出す必要があります。

イエス・キリストの御名の権威をもって、毎日、追い出す必要があります。

そして、聖霊様を歓迎する必要があります。

使徒 27:27-44

「こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。」(27:35)

嵐の中で食事をすることは難しいことです。

特に、

太陽も星も見えない日が何日も続き、暴風が激しく吹き荒れたので、私たちが助かる望みも今や完全に絶たれようとしていた。」(二〇節)

とあるように、絶望の中で食事をすることは容易いことではありません。

しかし、これから起こることを考えても、食べて、体力をつけ、気持ちを上げることは重要なことでした。

この時パウロは、食事を勧めただけでなく、神に感謝の祈りをささげてから、食べ始めたとあります。

パウロの行動は、人々に元気を与えるものでした。

聖書ははっきりと、

それで皆も元気づけられ、食事をした。」(三六節)とあります。

人生の嵐の中にあっても、神に感謝の祈りをささげてから、食べ始めるならば、元気づけられる人がいます。