Ⅰサムエル 5章

「アシュドデの人々は、この有様を見て言った。『イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。』」(7節)

  ペリシテ人の神ダゴンは、ご利益を与えてくれる神です。ご利益宗教の特徴は人間が中心であることです。そのような神は人間の幸せのために奉仕する、人間に好都合な存在でしかありません。しかし、聖書の神はまったく逆です。聖書の神は、私たちの願いどおりに動いてくださる便利な神ではありません。私たちの方が神に従って生きることを求められる、王の王、主の主なる神です。この箇所で驚くことは、悔い改めて唯一まことの神を受け入れるどころか、自分たちに都合のいい神を守ろうとすることです。私たちはペリシテ人のようにしていないか、自らの信仰を吟味することも大事なことだと思います。「主よ、あなたこそ我が神、我が主です。」

Ⅰサムエル 4章

「民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。『なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう。』」(3節)

  イスラエルの人々はペリシテ人に敗れた時、悔い改めて神に立ち返ることもできました。しかし、彼らは神のみこころを求めるどころか、自分たちの意見を出し合い、契約の箱を魔法の箱のようにもってきたら幸運をもたらすことができると結論を出してしまいました。その結果、彼らは無残にも大敗北を喫し、契約の箱も奪われてしまいました。彼らが神の臨在を必要としていたことは確かだと思います。しかし、彼らの方法は間違っていました。聖書は言います。「・・・自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5,6口語訳)

Ⅰサムエル 3章

「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。」(10節)

 少年サムエルは主の宮で神の声を聴きました。ジョン・コーソン師は言います。「もしあなたが主に語ってもらいたいならば、あなたに導きを与えて欲しいならば、主の宮の中にいるべきです。」神様はもちろんいつでもどんな所でも語ることができます。しかし、神様がよく語られる場所は、主の宮である教会です。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)サムエルのように、「お話しください。しもべは聞いております。」という姿勢で礼拝に、婦人会に、祈祷会に、教会学校に集う時、確かに主の声を私たちは聖書のみことばを通して聴くことができるのではないでしょうか。

Ⅰサムエル 2章

「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(30節)

祭司エリの子供たちは、神の聖なるものを扱う役割があったのにも関わらず、その職を軽く扱っていました。エリもまた、そのような息子たちを祭司として用い続けたというところに、神に対する軽視があったと言われても仕方がないと思われます。神様はエリに言いました。「わたしを軽視する者は、こちらでも軽視しよう。」(LB)私たちは神様を軽視していないでしょうか?キリスト教会を軽視していないでしょうか?礼拝を軽視していないでしょうか?キリストの十字架を軽視していないでしょうか?神のことば、聖書を軽視していないでしょうか?エリもエリの子供たちも、神様を軽く見ていたことに悲劇がありました。この警告は旧約だけの話ではありません。使徒パウロも言います。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。」(ガラ6:7)

Ⅰサムエル 1章

「彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」(18節)

 神様にいつまで個人的な願いを祈り続けるべきか?今日の箇所を見るならば、一度祈ればいいというものでもないようです。合理的に考えれば、「一度祈ればいい、神様はご存知だから祈らなくてもいい」となるかもしれません。しかし、聖書はそのようには教えていません。祈ることそれ自体に意味があるからだと思われます。

では、いつまで祈り続ければいいのでしょうか?

ハンナがこの個人的な祈りの期間を終了した時、彼女の顔は以前のようではなかったとあります。私たちはこの確信を得るときまで祈る必要があります。神様の答えはいつも、私たちが願っていたことと同じとは限りません。しかし、祈った後の私たちの顔は、ハンナと同じように、もはや以前のようではありません。

Ⅱコリント 13章

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(13節)

聖書の神は、三位一体なる神様です。唯一の神ですが、子なる神キリスト、父なる神、聖霊なる神の三つの位格があります。このことを知的に理解することができないために、多くの学者は否定しようと努力してきました。しかし、使徒パウロは、はっきりとそのことを意識して、このような祈りのことばを記していることは明らかです。私たちが持つ知性で把握することが出来ないからと言って、神のご性質が変わることはありません。神は神であり、三位一体なる神様なのです。コリントの教会に対して、パウロは厳しい言葉を並べてはいましたが、恵み、愛、交わりという三つを一つとしてまとめているところに、教会のあるべき姿を教えられます。

「父、子、聖霊の三位一体なる神様。あなたの恵み、愛、交わりで教会を一つにして下さい。」

Ⅱコリント 12章

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9節)

 パウロには問題がありました。多くの学者は、目の問題だと考えていますが、はっきりと分かってはいません。神様は彼を用いて多くの人をいやされましたが、彼の目はいやされませんでした。「いやしてください」と何度も祈った彼に神様は言いました。「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこと、最もよく現れるのだから。」(LB)

私たちに弱さがあるからこそ、神様の力が輝きます。自分に足りなさがあるからこそ、神の偉大さが現されます。マイナスは必ずプラスになります。

「主よ、どんなことがあっても、あなたを信頼し続けることができますように。」

Ⅱコリント 11章

「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(29節)

 

今日の箇所をLBではこう訳しています。「誤った道を進んでいる人を見て、悲しまないでいられるでしょうか。倒れている人を見て、知らん顔ができるでしょうか。精神的に痛手を受けている人を見て、傷つけた相手を激しく怒らずにいられるでしょうか。」この表現に使徒パウロの教会に対する思いを見ることができます。いや、使徒パウロに与えられた神様の教会に対する思いを見ることができます。教会は、キリストの花嫁だという箇所があるように、神様にとって教会と言うのはあってもなくてもいい存在ではありません。西洋の個人主義の影響で、信仰の個人的側面が過度に強調され、教会を過小評価する傾向が強くなっていますが、それは、神様の思いではありません。「主よ、あなたの教会を大切にできますように。」

Ⅱコリント 10章

「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち
砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」(5節)

今日の箇所を直訳しますと、こうなります。「神の知識に反対するあらゆる高
慢、そして、すべての思い(考え)を捕らえてキリストに従順するように連行す
る」。この世界には様々な考え方がありますが、私たちは聖書的な信仰に自分の
考え方を捕らえて連行する必要があります。自然に身につくというものでもあり
ません。私たちは「ツール」(道具)が必要です。畑を耕すためには鋤が必要で
す。勉強をするためには本が必要です。料理をするためには鍋が必要です。祈る
ためには信仰が必要です。同じように、私たちの考え方を聖書的な信仰に捕らえ
て連行していくために、ツールが必要です。聖書を読むこと。祈ること。聖書的
な説教(メッセージ)に耳を傾けること。私たちは自分の考えを聖書的な考え方
に連行するツールが必要です。

Ⅱコリント 9章

「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(10節)

「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる」と聖書は言います。つまり、まず、蒔かなければ体験できない世界があるということです。信仰の世界と言うのは、そのようなものです。理解できたら信じるというのではなく、信じていくときに理解することができます。ここでは、献金という文脈で語られています。献金の恵みは、大変な状況の中でも信仰をもってささげていくということを実践しなければ体験できない世界です。厳しい状況の中でも捧げて行くときに、まさに、「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる」という世界を体験します。よく言われることですが、一個のりんごの中にある種の数は数えられても、その種から生み出されていくりんごの数を数えることはできません。「主よ、私を蒔く者としてください。」