Ⅱサムエル 24章

「しかし王はアラウナに言った。『いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。』」(24節)

ダビデは神様に命じられたとおりアラウナと言う人の打ち場に行き、そこに祭壇を築くためにその場所を購入しようとしました。この場所に神殿が建てられることになります。アラウナは、無料でその場所を提供することを進言します。ただで手に入れることができるという話は、ダビデにしたら悪い話ではないはずです。しかし、彼は言います。「いやいや、ただで受け取るわけにはいかん。ぜひ、売ってもらいたい。神様に、何の犠牲もはらわず、完全に焼き尽くすいけにをささげたりはできんのでな。」(LB)ダビデは、「犠牲」(いけにえ)の意味を理解していました。犠牲の伴わない、いけにえはありません。神様は私たちの犠牲を受けるのにふさわしいお方です。

Ⅱサムエル 23章

「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。」(2節)

 ダビデは、詩篇の詩を書いている時、神様が自分を通して語られていることに気づいていました。イエス様もそのことを認めています。

「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』」(マルコ12:36)

神様は今も、聖霊によって書かれた聖書のことばを通して、私たちに語られます。語る時に働かれた聖霊なる神様は、キリストを信じる者の内に住まわれ、聞く時にも働いてくださいます。聖書は言います。

「あなたがたはキリストによって聖霊が注がれている、だからあなたがたはみな真理を知っている。」(Ⅰヨハネ2:20TEV)

「聖霊なる神様、あなたを私の教師として歓迎します。今日も聖書のみことばを通して私にお語りください。いのちのみことばを与えてください。」

Ⅱサムエル 22章

「私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(30節)

ある注解書でこう訳しています。「私の神と一緒ならば、私はどんな壁も飛び越
えることができる。(WBC)」ダビデは、「神様と一緒ならば、どんな壁も飛び
越えることができる」と晩年に告白しています。それは逆を言えば、いろいろな
壁に頭をぶつけてきたという意味でもあると思います。ダビデはいろいろな壁に
ぶつかって、自分の小ささを体験する中で、膝を屈めることによって神が一緒な
ら大丈夫ということを確信していったのだと思います。数年前に召されたリッ
チ・モーリンズというクリスチャン・シンガーがこんな歌を歌っています。
「委ねることが自然にできない。あなたが与える私に必要なものをとるよりも、
むしろ本当は欲しくない何かのためにあなたと戦ってる。それで、何度も頭を壁
にぶつけ、崩れ落ち、膝をかがめる・・・イエス様、私を抱きしめて。葉っぱの
ように揺らいでるから。」

Ⅱサムエル 21章

「ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。」(1節)

ダビデはイスラエルの国の危機的な状況を見て、「特別に時間をかけて祈りました」(LB)。これがクリスチャンのあるべき姿勢だと思います。すべての問題を、何かに関連付ける必要はないと思います。しかし、この日本の国が、社会的、経済的、道徳的、霊的な問題に直面しているのに、私たちは見て見ぬふりをするべきではありません。神様はソロモン王にこう言いました。「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(Ⅱ歴代誌7:14)私たちは神様の御顔を求め、この日本の国のために主のみこころを求めて、呼び求める必要があります。誰が悪いかと犯人さがしをするのではなく、主の前にへりくだり祈る人が必要です。

Ⅱサムエル 20章

「そこでアマサは、ユダの人々を召集するために出て行ったが、指定された期限に間に合わなかった。ダビデはアビシャイに言った。」(5,6節)

 ダビデは、自分に反乱したアブシャロムの軍団長、アマサをヨアブの代わりに軍団長に任命しました。反乱者であっても、ダビデの息子であったアブシャロムをヨアブが殺害したため、ヨアブを避けたのだと考えられます。しかし、アマサは三日のうちに軍を召集する命令をうけたのに、間に合いませんでした。そのため、ダビデはヨアブの弟、アビシャイに任務を与えます。アマサがどうして間に合わなかったのか、理由は記されていません。しかし、チャック・スミス師は、この箇所からこんなことを言っています。「神が命じられたならば、すぐ行動を起こすことは大事なことです。もし、神があなたに何かを語ってるなら、今それをしましょう。」

「主よ、あなたの語りかけに応答することができますように。」

Ⅱサムエル 19章

 「それで今、立って外に行き、あなたの家来たちに、ねんごろに語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれひとりあなたのそばに、とどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいでしょう。」(7節)

  ダビデは、反乱者であっても、自分の息子であるアブシャロムの死に悲嘆にくれてしまいました。そんなダビデの姿を見て、ダビデのために戦った人たちはどう反応していいか分からなくなってしまいました。それでヨアブはダビデのところにやってきて、個人的な感情を優先させるのではなく、自分のために戦ってくれた人々に感謝しなければ、もう誰もダビデの周りにはいなくなると注意しました。「個人的な痛みや苦しみに悩んでいたとしても、支えてくれている人々に対する感謝を忘れませんように。」

Ⅱサムエル 18章

「アヒマアツは低地への道を走って行き、クシュ人を追い越した。」(23節)

  ダビデ王のもとに、ヨアブは最初、クシュ人を伝令で遣わしました。しかし、勝利の報告をどうしても伝えたかったアヒマアツは、ヨアブに頼み込んで、自分もダビデのもとに行くことを許可してもらいました。後から出発したアヒマアツは、低地への道を走って行ったので、クシュ人を追い越してしまったと聖書は言います。つまり、クシュ人は丘を登り谷を下ったために、時間がかかってしまったということだと思われます。スポルジョンはこんなことを言っています。「私の霊の旅はどうであろうか。労苦を重ねて自らの行いという丘に登り、屈辱と自己の決断の谷に下っていないだろうか。それとも私は、『信じて、生きよ』との平坦な道を走っているだろうか。・・・この箇所を読んで気づくことは、もし人がささいな問題で争っているならば、他の者に追い越されるということである。」

「主よ、まっすぐに主のもとに走れますように。」

Ⅱサムエル 17章

「アヒトフェルはさらにアブシャロムに言った。」(1節)

  アヒトフェルの助言は、「人が神のことばを伺って得ることばのようであった。」(16:23参照)と言います。そんな彼が、どうしてここまでダビデに対して敵対心をむき出しにしたのでしょうか。23章34節を見ると、彼にはエリアムという息子がいたことが分かります。そして、11章3節を見ると、エリアムの娘が、バテ・シェバであることが分かります。そして、このバテ・シェバの夫、ウリヤを戦死させるように命じたのはダビデでした。孫娘に対する一連のことによって、アヒトフェルの心にずっと苦々しい思いがあったことはたやすく想像することができます。アヒトフェルが怒るのはもっともなことです。ダビデがしたことを正当化することはできません。しかし、苦々しい思いは、相手ではなく私たちを破滅に導きます。「苦々しい思いから解放して下さい」

Ⅱサムエル 16章

「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(12節)

 息子のアブシャロムの反乱に、王国を捨てて泣きながら逃げるダビデに、前の王のサウル家の一族の一人、シムイはののしります。榎本師はこんなことを言っています。「誤解や中傷は私たちの人生にはつきものである。それは決して特別なものではない。ところが私たちはこうした被害を受けるとき、なんとか早くそれが解消するようにとやっきになる。しかし、自分をのろう者を抹殺したからといって、それで問題が解決するわけのものではない。・・・神への信頼、神による勝利を確信する者だけが、耐えることができ、耐えることができる者だけが勝利にあずかることができるのである。」箴言にこう書いてあります。「悪いことをされても仕返ししてはいけません。神様が片をつけてくださるのを待ちなさい。」(箴言20:22LB)神様はすべてのこと、マイナスに見えることもプラスに代えてくださるお方です。(ローマ8:28参照)

Ⅱサムエル 15章

「この民がみな進んで行くとき、国中は大きな声をあげて泣いた。王はキデロン
川を渡り、この民もみな、荒野のほうへ渡って行った。」(23節)

 ダビデの息子、アブシャロムは人の心をつかむのが巧みでした。彼は、「王の
ところへ訴えを持ち込む人を見つけると、そのつど呼び止めて、さも関心がある
ように、訴えを聞くのです。」(2節LB)彼には下心がありました。彼はダビ
デに謀反を起こすためにしたのです。それで危険を感じたダビデは、泣きながら
キデロン川を渡って逃げました。キデロン川、それはエルサレムの汚物が流れて
いる濁流です。それは、困難と悲しみの川です。私たちの王、イエス・キリスト
もまた、同じようにその川を渡られました。スポルジョンはこう言っています。
「ダビデは一時卑しい身分に下ったが、やがて勝利を得て都に帰り、またダビデ
の主は勝利を得て墓からよみがえられた。だから私たちも勇気を奮い起こそうで
はないか。」
「主よ、元気を与えてください。」