Ⅰ列王記 11章

「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現われ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。」(9、10節)

 最も賢い王であったはずのソロモン王は、最も愚かな王になってしまいました。彼は神様のみことばに耳を傾けなくなってしまい、すべての歯車が狂ってしまいました。彼はそんな彼の人生を振り返ったのか、晩年にこんなことを伝道者の書に書いています。「わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。」(1:16-:18新共同訳)

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:13)

「神のみことばに耳を傾けます。」

Ⅰ列王記 10章

「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。(7節)

10章は有名なシェバの女王の話です。シェバはアラビアの南西、現在のイエメンの辺り。アラビアの中でも肥沃な地域で、通商の面でも栄えていた地域でした。ソロモンの名声は、それほど遠くまで届きました。シェバの女王の名前が後世まで残ったのは、彼女が自分の目で確かめようとはるばる来たからです。イエス様はおっしゃられました。「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」(マタイ12:42)イエス様を求める者には報いてくださいます。求めましょう!

Ⅰ列王記 2章

「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。」(2節)

 ダビデの時代に、「復活」という教えはありませんでした。「死」というのは神の領域であり、人にはどうすることもできない領域でした。ですからダビデはただ、「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」とだけ言いました。しかし今、イエス・キリストが死の力を打ち破りよみがえられましたから、私たちには栄光の保証があります。私たちがこの肉体を離れる日、私たちは神のみもとにいるのです。(Ⅱコリント5:8参照)私たちは、「子供たちよ、私はこれから主のみもとにいく。主と共にいることは本当に素晴らしい!」と言うことができます。永遠のいのち、栄光の望みがあるということは素晴らしいことです。ダビデがソロモンに語った勧めは私たちにも適用できます。「強くあれ。あなたが造られた目的に生きなさい。神があなたに語ることを行ないなさい。」(メッセージ)

Ⅰ列王記 1章

「一方、ハギテの子アドニヤは、『私が王になろう。』と言って、野心をいだき、戦車、騎兵、それに、自分の前を走る者五十人を手に入れた。」(5節)

 アドニヤは、老いた父、ダビデ王に代わって、自分こそ王位につくべきだと考えました。確かに、彼は周りから見てもふさわしい人物のように見えました。しかし、新共同訳では、彼は「思い上がって『わたしが王になる』と言い」と訳しています。聖書は私たちが思い上がって、自分で自分を高めないように警告しています。「神様は、謙そんな者を特別、祝福してくださいますが、高慢な者には容赦なさいませんから。もしあなたがたが、神様の力強い手の下で慎み深くしているなら、ちょうどよい時に、神様は高く引き上げてくださるでしょう。」(Ⅰペテロ5:5,6LB)

 「主よ、あなたが私を必ずちょうど良い時に引き上げてくださることを信じて、日々、慎み深く歩むことができますように。」

ガラテヤ書 6章

「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(9節)

 この世は完全でもなければ、天国でもありませんので、時には、善を行うことが馬鹿らしく感じてしまう時があると思います。周囲を見て、良いことを行う自分が損をしていると感じる時もあると思います。もちろん、私たちは見返りを求めて善を行うわけではありません。神の国の国民として、神が善であり、善を行われるがゆえに、私たちも善を行うように努めます。しかし、それだけではなく、失望せずにいれば、収穫する時が来ると言います。「あきらめないこと。やめないこと。」

神は私たちの善行をすべて記録しています。人は善行でなく、キリストの十字架によって救われます。しかし、誰も気づいていなくても、あなたが捧げたこと、助けたこと、神はご覧になっておられ、必ず報いられます。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」(使徒10:4)

ガラテヤ書 5章

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされ
てしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そう
すれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(15,16節)

ガラテヤの教会は、偽教師の問題がありました。彼らは使徒パウロの使徒職を疑
わせ、パウロが語る恵みの福音を否定し、旧約聖書に記された律法を守らなけれ
ば救われないと教えました。その結果、ガラテヤの教会の内部でパウロの側に立
つ人々と、偽教師の側に立つ人々で対立が起こりました。しかし、パウロは戦う
ことを勧めませんでした。パウロが与えた解決策は、聖霊によって歩むことでし
た。聖霊なる神様に動機付けられ、聖霊なる神様の導きに生きることでした。自
分がどう思うか、自分がどう感じるかと言った自己中心的な欲望に導かれるので
はなく、聖霊なる神様の導きを求めて生きるということでした。「聖霊様、導い
てください。」

ガラテヤ書 4章

「ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」(7節)

放蕩息子は、子供でなくても、お父さんの使用人の一人であったとしても幸せだということに気づきました。すばらしい主人に仕えることができる奴隷は幸せです。ですから、私たちは神の奴隷でも幸せです。しかし、キリストを信じる者は、奴隷ではなく、子としてくださると言うのです。「神の子」というアイデンティティは、私たちの人生を変えます。神の子として、その特権に感謝して生きているでしょうか?神の子として、その意識をもって一日一日を尊厳をもって生きているでしょうか?何よりも、神の子として、神様を「お父さん」と呼ぶことができるとは、何とすばらしい祝福でしょうか!「天のお父様、イエス様の十字架の御業のゆえに、私を子供としてくださったことを感謝します。神の子としてあなたに喜ばれる生き方ができますように。」

ガラテヤ書 3章

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(3節)

クリスチャンになる唯一の方法は、イエス・キリストを自分の救い主として心に歓迎することです。それ(信仰義認)はまた、聖霊なる神様の働きだと聖書は言います。宗教儀式を積み重ねたり、修行を積むことによって救われることはありません。新興宗教が教えるように、何かをすることによって救われるというのは、聖書が教えている内容ではありません。もし、人間の努力で何とかなる内容ならば、わざわざ神の御子、イエス・キリストは、十字架にかかり死ぬ必要はありませんでした。ですから大事なことは、聖霊なる神様を歓迎し、聖霊なる神様の導きに生きるということです。イエス・キリストを人生の王として認め、神の国の国民として生きることです。

「聖霊なる神様、歓迎します。」

ガラテヤ書 2章

「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(16節)

誰も自分の努力によって義と認められるような、「救いにふさわしい人物」になることはできません。神の基準に達することは誰にもできません。多くの人は自分の悪い行いと良い行いを天秤にかけて、良い行いが勝れば義と認めてくれるということを信じ込んでいますが、聖書にはそんなことは書いていません。逆に、「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。」(イザヤ64:6口)とあります。良い知らせは、私たちは、「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(信仰義認)のです!

ガラテヤ書 1章

「先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。」(17節)

アラビアとは、パウロにとっての退修の場所でした。私たちも日常から退却して神との時間をとるアラビアが必要です。友人や家族や批判者の言葉ではなく、神のみことばに耳を傾ける時間が必要です。静かな部屋で神様との時間をとるならば、それがアラビアとなります。日曜日の礼拝の時間もアラビアとなります。私たちは、神が愛されていること、赦されていること、受け入れられていることを自分の霊に浸す時間が必要です。パウロは焦って自分の働きに出て行くことはしませんでした。彼は神が働かれていることを知っていました。神が彼を必要としているのではなく、彼が神を必要としていたのです。アラビアは、パウロにとって、神を自分の中心に据える訓練の場となりました。「主よ、あなたとの時間をとります。臨んでください。」