Ⅱ歴代誌 19章

「しかし、あなたには、良いことも幾つか見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、心を定めて常に神を求めて来られました。」」(3節)

私たちは私たちのために十字架にかかり死んでくださったイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるのであり、私たちのこの世での善行はそれに何も加えることはありません。しかし神は私たちの良いことを見られています。聖書にこうあります。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58)「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」(ヘブル6:10)ですから聖書は言います。「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」(ガラテヤ6:10口語訳)

Ⅱ歴代誌 18章

「すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座に着き、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。」(18節)

神様はミカヤが天上で起きている場面を見ることを許されました。神は御座に着き、多くの天使たちがその周りに立っていました。神はアハブ王をどのように倒すか提案を求めました。いくつかの案が出され、最後に一人の天使が出てきて、「偽りを言う霊となり」、アハブに助言を与える預言者を通して、彼を惑わすことを進言します。理解しづらい内容ですが、ヨブ記にも似たような場面があります。はっきりしていることは、神様が御座に座していて、何事も神様の許可なしには起きないということです。そして、神が許可される時、それは、意味があるということです。私たち人間にはすべてを理解することはできません。しかし、それでも神は神であり、御座に座しておられます。私たちはそれでもなお神様を信頼することが求められています。

Ⅱ歴代誌 17章

「彼らはユダで教えた。すなわち、主の律法の書を携えて行き、ユダのすべての町々を巡回して、民の間で教えた。」(9節)

 

ヨシャパテは、偶像を取り除いただけではなく、神のみことばを教えました。国中を巡回し、神の御言葉を人々に教えました。人々の信仰は、神のみことばの教えによって建て上げられていきました。教会の中心的な働きも、聖書のみことばを教えることです。パウロは若いテモテに言いました。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(Ⅱテモテ4:2-4新共同訳)教会は、聖書の教え、健全な教えを教え続ける必要があります。時が良くても悪くても、教え続ける必要があります。

「主よ、あなたの教会が、聖書の健全な教えを教え続けることができますように。」

Ⅱ歴代誌 16章

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(9節)

  主は、今も、あまねく全地を見渡しておられます。主は、ご自身の力をこの地にあらわしたいと願われておられるのです。イエス様がこの地上におられた時に、たくさんの御業をなされたように、今も、私たちの世界に、ご自身の御業をなしたいと願っておられるのです。神様はなぜか、人を用いてご自身の力を現すことを選ばれます。ですから、心がご自分とまったく一つになっている人を探しているのです。神様と心を一つにするためには、へりくだって神のみことばを読む必要があります。神の心を、自分の心とするように、聖書を読む必要があります。

「主よ、少年サムエルのように、『しもべは聞きます。お話しください』(Ⅰサムエル3:10口語訳)と、いつも主のことばに耳を傾けられますように。」

Ⅱ歴代誌 15章

「彼らは心を尽くして誓いを立て、ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示されたからである。主は周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。」(15節)

LBでは、「神様を慕い求め、ついに神様と出会うことができたので」と訳しています。聖書が私たちに教えていることは、私たちが心から求めるならば、私たちは神様に出会うことができるということです。賛美の中で、祈りの中で、また、神のみことばである聖書を読む中で、私たちは生ける神、イエス・キリストと出会うことができます。「ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示された」。新約聖書にもこう書いてあります。
「神様のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神様を求めれば必ず報いられることとを、信じなければなりません。」(ヘブル11:6LB)
主を慕い求めるならば、主はご自身を示されます。
「主よ、あなたを心から慕い求めます。」

Ⅱ歴代誌 14章

「アサはその神、主に叫び求めて言った。「主よ。力の強い者を助けるのも、力
のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主
よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大
軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなた
に並ぶようなことはできないようにしてください。」」(11節)

 無限に1を足しても、無限に100を足しても変わりはありません。私たちの
神は無限の神なので、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも変わり
はありません。大事なのは私たちが無限の神に拠り頼み、そのみ名によって歩ん
でいくかどうかということです。ですから使徒パウロはこう言いました。
「神様が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)
「主よ、あなたに拠り頼み、あなたの御名によって前進します。」

Ⅱ歴代誌 13章

「イスラエル人は、このとき征服され、ユダ人は、勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。」(18節)

北イスラエル王国は、南ユダ王国をいわゆる挟み撃ちにしました。14節には、「戦いは前後から迫っていた。」とあります。まさに、八方ふさがり状態でした。しかし、天は開いていました。彼らが主に叫び求めた時に、神が介入されました。同じように私たちの人生にも、挟み撃ちにされているような、八方ふさがりの状況があります。しかし、天は開いています。私たちも主に叫び求めることができます。そのことをよく理解していた使徒パウロは言いました。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」(Ⅱコリント4:8)
「主よ、どんなに行き詰っても、天を見上げ、あなたを呼び求め、あなたに拠り頼んでいくことができますように。」

Ⅱ歴代誌 12章

「このように、彼がへりくだったとき、主の怒りは彼の身を離れ、彼を徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったからである。」(12節)

聖書はへりくだることの大切さを何度も語っています。使徒ペテロもこう言っています。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(Ⅰペテロ5:5)レハブアム王は、王位が確立し、強くなるに及んで、神から離れていってしまいました。高ぶりは恐ろしいものです。祈らなくても、聖書を読まなくても、教会にいかなくても自分で何とかやっていけると思い始めるとき、人は、ずれていってしまうのだと思います。へりくだって、「イエス様あなたが必要です。今日もあなたのみことばが必要です。」と、祈りつつ教会生活を大切にしていくことが大切です。「ユダにも良いことがあったからである。」という表現には希望があります。へりくだったとき、良いことがはじまります。

Ⅱ歴代誌 11章

「実は、レビ人は自分たちの放牧地と所有地を捨てて、ユダとエルサレムに来たのである。ヤロブアムとその子らが、主の祭司としての彼らの職を解き、自分のために祭司たちを任命して、彼が造った高き所と雄やぎと子牛に仕えさせたからである。」(14、15節)

ヤロブアムの問題は、神が任命した祭司たち、レビ人たちを軽視したことです。聖なるもの、神のものに関して、人間的な、合理的な発想をすることは危険を伴います。聖なるものは、自分の合理的な判断ではなく、神のみことばに照らして判断する必要があるからです。ヤロブアムは「自分のために祭司たちを任命し」たと言います。彼にとっての神は、自分自身だったのです。このような自分中心の信仰姿勢は、ヤロブアムのようにどんどんとずれていってしまいます。ですから、聖書信仰が重要です。聖書が何と言っているか、聖書を中心とした信仰姿勢が大事です。「聖書は誤りなき神のことばだと信じます。」

Ⅱ歴代誌 10章

「王は民の願いを聞き入れなかった。それは、かつてシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムに告げられた約束を主が実現するために、神がそうしむけられたからである。」(15節)

私たちは、レハブアム王はなんと愚かな事をしたのだろうと思います。しかし聖書は、実はこれは神がしむけられたことだったと言います。詳しくはⅠ列王記11:29-39に出てきます。つまり、問題の発端はソロモン王にあったということです。私たちは、見えるところですべてを判断する傾向があります。しかし、物事はそんなにも単純でない場合が多いと思います。その背後にある意味を見落としてはいけないと思います。「神がそうしむけられた」ということは、神が許可されたということです。神は私たちが神に立ち返るために、あえて、私たちが問題にあうことを許可されるということです。つまり、問題が問題ではなく、私たちがその問題をどうするかが問題です。「主よ、あなたに立ち返ります。」