イザヤ 59章

「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(16節)

預言者は言いました。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9)

しかし、この箇所で、神様はイスラエルの国のためにとりなしの祈りの手を挙げる人を見つけることができなかったと言います。しかし、だからといって神様の働きが失われるわけではありません。希望はあります。神様ご自身が介入されると約束されます。

「神様はこう告げます。『これが彼らへの約束だ。わたしの霊は決して彼らから離れない。彼らは正しいことを望み、悪を憎むようになる。彼らだけでなく、子々孫々、永遠にそのようになる。』」(21節LB)

 「主よ、ご介入してください。」

イザヤ 58章

「わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。」(5節)

当時の人々は、表面的には断食までして、敬虔そうに振舞っていました。しかし、神様はそんな表面的な行為よりも、神の民としての具体的な行動を求めます。

「あなたのすべきことは、弱い者いじめをやめ、でっち上げの告発をしたり、悪質なうわさを流したりするのをやめることだけです。飢えた者に食べさせ、困っている者を助けなさい。そうすれば、あなたの光は暗やみの中から輝き渡り、あなたを取り囲む暗やみは真昼のように明るくなります。」(9,10節LB)

神様をごまかすことはできません。ですから、詩人は祈りました。

「ああ神様。私の心を探り、その内面を調べ上げてください。もし、あなたを悲しませるようなものがあるなら、教えてください。そうして、永遠のいのちへの道からそれないようにお導きください。」(詩139:23,24LB)

イザヤ 57章

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(15節)

LBでは後半部分をこう訳しています。

「わたしは謙そんな人を生き返らせ、悔い改めた人に新たな勇気を起こさせる。」

聖書の言う「謙そん」は自己卑下とは違います。自分をかわいそうに思うことではなく、自分は神が必要な存在であると認めることです。自分は有限な被造物であり、無限な創造者ではないと認めることです。神を神として認めることです。自分中心(自己実現)の人生から神中心(神実現)の人生に方向転換(悔い改め)する時に、神様は私たちに新たな勇気を起こされます。

「創造主なる神様、あなたが必要です。私を新しくしてください。」

イザヤ 56章

「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(7節)

聖書の神は特定の人の神ではなく、すべての人の神です。神は言われます。

「わたしの祝福は、神を信じる外国人にも及ぶ。彼らは二の次にされるなどと考えてはならない。」(3節LB)

神の目には人種差別はありません。新約聖書にもこう書いてあります。

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:28新共同訳)

今、キリスト教会は、「すべての民の祈りの家」です。キリストにあってあらゆる人が一つになって主を賛美し祈る姿こそ、教会があるべき姿だからです。この祈りの家で、神は私たちを楽しませてくださいます。

イザヤ 55章

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(6節)

 ある時、イエス様がこう言われました。

「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」(ヨハネ9:4,5)

使徒パウロは、

「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)

と呼びましたが、今という時に、主を呼び求めることが大切です。私たちは、今という時に一人でも多くの人が主を呼び求めることができるように、主イエス・キリストを指し示す必要があります。聖書は言います。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。」(Ⅱペテロ3:9,10)

イザヤ 54章

「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。―主の御告げ。―」」(17節)

LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「しかし、やがて来る日には、おまえに向けられたどんな武器も役に立たなくなり、法廷でどんな偽証が並べ立てられても、おまえは正しいと認められるようになる。これが、主のしもべの特権であり、わたしからの祝福だ。こう神様はお語りになります。」

まさに、これが「義認」と呼ばれるものであり、イエス・キリストを信じる者に与えられた約束です。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)

「イエス様、あなたの約束を感謝します。」

イザヤ 53章

 「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(5節)

イザヤ書53章は、「苦難のしもべ」と呼ばれる箇所で、イエス・キリストの預言として新約聖書で引用されています。使徒ペテロもこの箇所を引用してこう言っています。

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

LBでは4節をこう訳しています。

「ところが、彼が背負い込んだのは、実は私たちの悲しみであり、彼を押しつぶしたのは、私たちの嘆きでした。」

イエス・キリストの十字架の受難が、実は自分のためであったと認識するとき、私たちの人生は一八〇度変わります。メル・ギブソンの「パッション」(受難)の映画は、この視点から見るならば、私たちにいやしをもたらします。

イザヤ 52章

※ 本日,11時から14時まで、教会ではバザーを開催しています。ぜひ、お出かけください!

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」(7節)
 
聖書が言う「良い知らせ」、「福音」とは、

「あなたの神が王となる。」

ということです。四つの福音書すべてが、イエス・キリストが十字架に架けられた時、その罪状書きには、

「ユダヤ人の王」

と書いてあったことを記録しています。つまり、神は、神の御子イエス・キリストが十字架に架かられることによって王となられたというのです。事実、三日目に死から復活されたことを通して、最後の敵である死をも滅ぼされたことを示しました。死のとげは切り取られました。使徒パウロは言います。

「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(Ⅰコリント15:57新共同訳)

イエス・キリストの十字架の御業を宣べ伝えることは美しいことです。

イザヤ 51章

「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」(3節)
 
 神様の約束は、イエス・キリストによってすでに成就しました。罪の呪いはすでに除かれました。しかし、まだ、私たちはこの預言に約束された秩序や美しさや豊かさの完全な回復を見ていません。これらは、イエス・キリストが再臨される時、完全に成就します。神の国は、今、キリスト者たちを通してこの世界に浸透しています。キリスト者がこの世界でひざまずき、祈りを捧げることを通して、神の国の慰めがもたらされます。私たちが礼拝を捧げるその場所、楽しみと喜び、感謝と歌声があるその場所が、主の園のようになっていきます。今日は、主の日です。心から神を楽しみ、喜び、感謝と歌声を上げ、荒野を主の園のようにしていただこうではないでしょうか!
…………………………….
※ 本日のSSCの第三礼拝(18時)は、明日もたれるバザーの準備のため、お休みです。

バザーは、明日、11時から14時まで。

皆様のお越しをお待ちしています!

イザヤ 50章

「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」(4節)

LBではこう訳しています。

「神様は私に、知恵の言葉を授けました。疲れきった人に何を言ったらいいかを教えるためです。朝ごとに、神様は私の目を覚まし、理解力を深め、みこころを示してくださいます。」

神様は、朝ごとに、聖書のみことばを与えてくれます。私たちは聖書を開くたびに、理解力が深められていきます。興味深いことは、神様が私たちに御言葉を授けてくれるのは

「疲れきった人に何を言ったらいいかを教えるため」

だと言います。私たちは自分の教養のためというよりも、人々を励ますために日々神のみことばを受け取る必要があると言います。

「主よ、誰かを励ますことができるように、今日もあなたのみことばを与えてください。」