エレミヤ 27章

「バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない民や王国があれば、わたしはその民を剣と、ききんと、疫病で罰し、―主の御告げ。―彼らを彼の手で皆殺しにする。 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞くな。」(8―9節)

神様は、ユダの人々に対してご計画を持っておられました。それは、バビロンに捕囚されることを通してユダの人々が生き延び、悔い改め、もう一度やり直す、というものでした。しかし一方で偽預言者や占い師は神様の御言葉とま逆のことを言って人々を安心させ、完全に滅びてしまう道へとユダの人々を誘おうとしていたのです。これこそ、悪魔のやり方です。甘い言葉で私たちを滅びへと導くのです。けれども神様は、どうにかして私たちに命を与えようとしてくださいます。今日は主の日です。まず、主を待ち望みましょう。

エレミヤ 26章

「彼らはウリヤをエジプトから連れ出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、そのしかばねを共同墓地に捨てさせた。」(23節)

今日の箇所は何とも血なまぐさい場面です。ウリヤは預言者の一人で、神様の御言葉を曲げずに、ありのままを伝えたエレミヤと同じような人物でした。彼もまたバビロンへの捕囚を預言し、そのために殺されてしまったのです。

いつの時代も、御言葉を曲げずに伝えることは命がけです。聖書に書かれていることをそのまま語ることは、時として大きなプレッシャーを感じます。けれども私たちは地の塩としての役割を絶えず意識しなければならないと思います。柔らかい言葉は大切ですが、御言葉の本質を曲げてまで柔らかく語るべきではありません。神様に知恵をいただきながら、今日も御言葉を伝える一日でありますように。

エレミヤ 25章

「アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。」(3‐4節)

ユダの人々の問題は、神様のことばを軽んじたことにあった、とも言えると思います。彼らは御言葉に慣れてしまい、真剣に御言葉に聞くと言う姿勢を失っていました。私たちがもし、自分の言った真剣な言葉を一日でも無視され続けたらどうでしょうか。怒り、さびしさ、むなしさを感じるのではないでしょうか。この箇所でユダの人々に、二十三年間エレミヤは神様の御言葉を語り続けた、と訴えています。神様の御言葉に対する真剣さを、何があっても失ってはいけません。

エレミヤ 24章

「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。」(5節)

 ユダの人々は、バビロニアに捕囚されていきました。彼らは神様から離れ、自分たちの目に良いと見えることを優先して生きることを続けていった結果、「捕囚」されました。ところが、この「捕囚」と言う試練を通して、まことの神のみに信頼することを学ぶ機会が与えられました。旧約聖書を通して、神様の忍耐と尽きることのないあわれみを私たちは見ることができると思います。時々『神様、そこまでしなくても・・・』と思うような箇所もありますが、決して私たちをあきらめない神様から、ガツンと『捕囚』される前に、気付いて神様に立ち返ることができたらどんなに幸いかと思います。神様に立ち返りましょう。

エレミヤ 23章

「わたしは近くにいれば、神なのか。――主の御告げ。――遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の御告げ。――天にも地にも、わたしは満ちているではないか。――主の御告げ。――」(23-24節)

 私たちは、その日の気分のよって神様を近く感じたり、遠くに感じたりすることがあると思います。けれどもこの箇所にあるように神様はいつでも、どのような場所にもおられる方です。私たちがすべての人を拒絶し、全く孤独だと感じるそのところにも、神様は満ちておられます。すべての人に見捨てられたと感じるときに、神様がそばにいてくださることを一番体験できるのかもしれません。いま、その場所で少しの間目をつむり、神様の語りかけを聞く時を持ちましょう。あなたがいるそのところに、神様は満ちておられるのです。

エレミヤ 21章

「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」(8節)

神様は私たちに選ぶ自由を与えています。この自由意志が両刃の剣で、この世に良いことも悪いことも起こる原因になります。しかし、自由意志がなければロボットと同じになってしまい、そこに愛の関係というものは生じません。いのちの道であるイエス・キリストを信じることを選ぶことに意味があります。キリストのからだであり、キリストの花嫁である教会につながることを選ぶことに意味があります。神のみことばである聖書を、自分の信仰と生活の規範とすることを選ぶことに意味があります。誰一人、イエス・キリストを自分の救い主として信じることを選ぶことなしに、クリスチャンになることはありません。神様はすべての人に選択を与えてます。

エレミヤ 20章

「しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。」(11節)
 
10節でエレミヤは言います。

「四方八方から脅し声が聞こえるので、私はおじ気づきます。」(LB)

エレミヤは、人々の笑い者になり、ばかにされ、脅され、

「もう辞めたい」

と思いました。しかし、そのような中で、エレミヤは主に目を向けることによって確信を得ます。

「しかし神様は、大勇士として私の側に立っています。」(LB)

この視点の転換こそが失望を確信に変える秘訣です。エレミヤは神様が側に立っておられることに気づいたのです。使徒パウロも似たような表現を用いています。

「神様が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

今日は主の日です。主に礼拝を捧げることを通して視点の転換をすることができますように。

エレミヤ 19章

「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはこの町と、すべての町々に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじのこわい者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。』」(15節)

当時の人々の問題は、強情を張り、神様のことばを聞こうとしなかったことでした。しかし、人間の本質は昔も今も変わることなく、今も強情を張って、神様のことばに耳を傾けようとしないという問題があります。信仰は聞くことから始まりますから、聖書のみことばに耳を傾けないことには何も始まりません。自分の思い、自分の考えを優先させ、聖書の権威を認めることができなければ、当時のイスラエルの人と同じ過ちを繰り返してしまうことになります。心をやわらかくして、聖書の権威を受け入れ、神のみことばに耳を傾けることができますように。

エレミヤ 18章

 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ。―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」(6節)

 「この陶器師のように」とありますが、前半部分にこう記されています。

「『さあ、陶器を作っている家に行け。そこで、おまえに話そう。』言われたとおりにすると、陶器師はろくろを回している最中でした。ところが、彼は手がけていたつぼが気に入らなかったので、それをつぶして粘土のかたまりにし、初めからやり直しました。」(2-4節LB)

この時、神様がエレミヤに語られました。神様はこの陶器師のような方であり、私たちはまさに神の手の中にある粘土のような存在です。これはまさに、絶対的な神の主権を現しています。この絶対的な神の主権を認めることは大切なことです。

エレミヤ 17章

「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」(10節)

 LBではこう訳しています。

「ただわたしだけが人の心を知っていて、すみずみまで探り、いちばん奥に隠された動機まで調べ上げる。そして、一人一人にそれぞれの生き方に応じた報いを与える。」

神様は私たちの心、私たちの動機の部分まで見ておられると聖書は言います。このことをよく現しているのがヨブ記でもあります。ヨブ記は、どうして私たちがこの地で正しく生きようとするのか、その動機は何か?ということがテーマになっています。ご利益があるから正しく生きようとするのか?もし、そうならば、ご利益を失ったら、正しく生きることをやめてしまうのか?神様は、まさに、私たちの動機の部分を見ておられると言います。結局のところ私たちの動機は、私たちの生き方にも反映します。

なぜ、正しく生きようとするのか?

あなたの動機は何でしょうか?