エレミヤ 44章

※ 本日の第三礼拝(18時)は、お休みです。

「彼らは今日まで心砕かれず、恐れず、わたしがあなたがたとあなたがたの先祖の前に与えたわたしの律法と定めに歩まなかった。」(10節)

バビロニアによって南ユダ王国が滅ぼされた後、エジプトに逃れたユダの人々に神様は語られました。彼らの本当の問題は、神に立ち返ろうとしなかったことだと。心砕かれ、神のみことばに生きようとしなかったことだと。しかし、彼らは問題をすり替えました。偶像崇拝をしていた時の方が自分たちは満ち足り、幸せであった、と言います。悪魔が私たちの人生を破壊するとき、神様から離れた状態で一時的に良いものを見せます。それはまるでギャンブルを始めたばかりのころに勝って味をしめ、やめられなくなってぬかるみにはまっていく様子と似ています。そうして、人生を台無しにしてしまうのです。主は言われます。

「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)

 

ピレモン書

「私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。」(7節)

ピレモンのパウロに対する愛というのは、具体的な支援のことだったと考えられます。パウロは、ピレモンの支援によって励まされました。「聖徒たちの心」と訳された言葉は、「内臓」を意味する言葉で、「感情の深奥の座」を意味することばです。支援を受けるとき、働き人は本当に元気づけられます。必要が満たされることも大きなことですが、それ以上に、自分の働き、存在が認められていると感じることができるからだと思います。「あなたによって」というのは、「あなたを通して」という意味です。神様は私たちを通して、私たちを用いて、聖徒たちを力づけようとします。

「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(Ⅱコリント9:8)

ピレモン書

「それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。」(5節)

今日の箇所は、キアズム(abba)という技法が使われていて、

「愛・信仰・主イエスに・聖徒たちに」

という語順になっています。パウロがピレモンを覚えるために、神様に感謝せずにいられない理由は、まず、彼の主イエスに対する信仰、忠実さのゆえでした。そして、ピレモンの聖徒たち、すなわち、クリスチャンたちに対する愛のゆえでした。十字架が縦の線と横の線があるように、私たちは神との縦の関係と、他のクリスチャンたちとの横の関係の両方が必要です。聖書は言います。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(Ⅰヨハネ4:20,21)

ピレモン書

天の御座に着いておられる方は笑う。(詩篇2:4)
Heaven-throned God breaks out laughing.. (MSG)

「私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。」(4節)

 新しい年、ぜひ、名前のリストを挙げて祈ることをお勧めしたいと思います。パウロは祈りのリストをもっていて、ピレモンの名前が出てくる度に、神に感謝せずにいられなかったということです。名前を挙げることによって私たちはその人のことを覚えることができますし、そのようにして神の国はこの地に現されていきます。

「いつも私の神に感謝しています。」

とパウロは言います。ジョン・クゥアンという牧師がこんなことを言っています。

「感謝は、結局のところ選択である。感謝は神を喜ばせるが、不平はサタンを喜ばせる。感謝は神様のみこころであり、不平はサタンの願いである。」

この年、祈りの中で、神様が出会わせてくださった一人一人を感謝することを選んでいこうではないでしょうか。すべて、天からの恵みのしずくですから。

ピレモン書

※ 本日の新年礼拝は13時半からです。

「姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。」(2節)

新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

新しい年、少しの間、エレミヤ書をお休みし、ピレモン書から耳を傾けたいと思います。

文字通り囚人だったパウロが、コロサイの教会の牧師ピレモンに手紙を書きました。アピヤは、ピレモンの妻、牧師婦人だったと言われます。アルキポは、ピレモンたちの子供で、家族で、コロサイの教会で奉仕していたのではと言われます。パウロはアルキポを「戦友」、「共闘者」と呼びました。これは、同じ衝突を体験していること。同じ危険に直面していること。同じゴールのために戦っていることを意味する言葉です。パウロはアルキポに、コロサイ書でこう言っています。

「主にあって受けた務をよく果すように」(4:17)

新しい年、福音の「共闘者」として、主にあって受けた務めを果たしていくことができますように。

エレミヤ 43章

※ 本年も大変お世話になりました。来年もよろしくお願いします。

本日23時より年末祈祷会。元日は13時半より新年礼拝です。

「すると、ホシャヤの子アザルヤと、カレアハの子ヨハナンと、高ぶった人たちはみな、エレミヤに告げて言った。「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は『エジプトに行って寄留してはならない。』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。」(2節)
 
 人々は神の導きではなく、自分たちがすることを肯定してもらいたいだけでした。つまり、人々がエレミヤの言葉を聞けなかった理由は「高ぶり」でした。彼らは思い上がっていたのです。神のみことばを聞くためには、謙そんになる必要があります。自分の考えが、聖書よりも上位にあれば、確かに主の御声を聞くことはできません。聖書は、謙そんを身に着けるように言います。

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(Ⅰペテロ5:5,6)

エレミヤ 42章

 「あなたがたは迷い出てしまっている。あなたがたは私をあなたがたの神、主のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、主に祈り、すべて私たちの神、主の仰せられるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行ないます。』と言ったのだ。」(20節)

エルサレムに残った民は、エレミヤに

「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです。」(6節)

と言いました。しかし実際は、自分たちが立てた計画を承認してくれるような神の御声ではなかったので、完全に無視しました。私たちも似たようなことをしているのではないでしょうか。自分が立てた計画を認めてもらおうと神の御声を求めるのですが、自分の計画と違うと、神の御声を無視してしまう。本当に神の御声を求めているのでしょうか?

エレミヤ 41章

「ネタヌヤの子イシュマエルは、彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行き、彼らに出会ったとき、言った。『アヒカムの子ゲダルヤのところにおいでなさい。』」(6節)
 
イシュマエルはゲダルヤを殺しただけでなく、エルサレムの陥落を悲しみに来た人たちを騙して殺害しました。イシュマエルは悲しんでいるふりをして、彼らを油断させて殺してしまったのです。これがサタンのやり方です。使徒パウロも言っています。

「サタンでさえ光の天使を装うのです。」(Ⅱコリント11:14新共同訳)

天使と思ったら、天使に変装した悪魔だったというのです。ですから私たちは、外見だけで判断すべきではありません。悪魔の目的は私たちを滅ぼすためだとイエス様は言われました。私たちは騙されないためにも、イエス・キリストから目を離さないように気をつける必要があります。そして、聖書のみことばにしっかりと立つ必要があります。

今日は主の日です。主のみを礼拝しましょう。

エレミヤ 40章

「しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、カレアハの子ヨハナンに言った。『そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ。』」(16節)

私たちはすべての人が自分に対して好意を持っていると考えたいと思います。ゲダルヤもそうでした。彼はヨハナンがせっかくイシュマエルが彼の命を狙っていることを告げたのに、ヨハナンの忠告を受け入れようとしませんでした。聖書はとても現実的です。私たちが生きているこの世界は天国ではありません。使徒パウロもこのような言い方をしています。

「できる限りあらゆる人と仲良くしなさい。」(ローマ12:18LB)

私たちはすべての人が自分に好意を当然もってくれると考えるべきではありません。自分に好意をもつことができない人もいることをも受け入れて、できる限り、仲良くする姿勢が大切です。

エレミヤ 39章

「わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。―主の御告げ。―」(18節)

 聖書の中で、「信頼」というのはキーワードの一つです。エレミヤを助けたエベデ・メレクは、神に信頼したから、エルサレムが陥落した時に、助け出されました。聖書ははっきりと言います。

「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10:11)

イエス・キリストに信頼するか、それとも、信頼しないかが私たちの永遠を左右すると言うのです。私たちは生きていく中で、信頼を裏切られる経験をする中で、誰かを信頼すること自体が難しく感じるようになります。しかし、イエス・キリストは私たちを決して裏切りません。私たちを見放したり、見捨てたりすることはありません。私たちのために十字架で死んでくださった信頼できるお方です。