哀歌 3章

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。」(23節)

 エレミヤは、神の裁きと言う悲しい知らせの中で、神様のあわれみを思い浮かべ、希望をこの箇所で語ります。彼は、そもそも、神様があわれみ深くなかったら、もっと前に滅んでいたということに気づきます。そして、希望をただ主に置きます。

「神様の救いだけに望みを置いて、静かに待つのはよいことです。」(26節LB)

私たちは自分の周りを取り囲む、問題に疲れ果て、落ち込んでしまう時があります。しかし、神様の救いだけに望みを置くならば、希望があります。主のあわれみは尽きないからです。

「神様は、ご自分を待ち望む者、ご自分を求める者に、とてもよくしてくださいます。」(25節LB)

「主よ、あなたを待ち望みます。あなたの真実は偉大です。」

哀歌 2章

「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」(19節)

 私たちは今、日本で起きているいろいろな出来事に、心を痛めることが多いのではないでしょうか。多くの人々は、まさに、弱り果てています。今こそ教会は、大声で叫び、心を水のように主の前に注ぎだす時ではないでしょうか。今、日本の同胞のために祈らなければ、いつ、祈るのでしょうか。

「主よ、私たちの国をあわれんでください。連日、悲しい事件が報道されています。しかし、もし、彼らが主の名を呼ぶことさえできれば解決できたはずの問題が数多くあるのではないでしょうか。主よ、この国に介入してください。あなたの教会を、輝かさせてください。一人でも多くの同胞が、主の名を呼び求められるように。」

エレミヤ 52章

「ユダの王エホヤキンが捕え移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。」(31、32節)

 何度にもわたる預言者エレミヤの警告に耳を傾けることがなかったユダの国は滅ぼされ、エルサレムは陥落し、人々はバビロンに捕囚されました。まさに、当然の結果が訪れました。しかし、エレミヤ書はここで終わりません。手遅れと思う状況の中で、エホヤキン王にあわれみの手が差しのべられたことを伝えます。つまり、ダビデ王朝が途切れたわけではなく、神のダビデに対する契約が終わったわけではなかったことを伺わせます。そして、ダビデの家系はイエス・キリストへとつながっていきます。ですから、私たちはどんなにがっかりしても、あきらめてはいけないのです。

エレミヤ 51章

「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。」(15節)

厳しい預言の合間に、預言者が神様の偉大さについて語っていることは、注目に値すると思います。エレミヤは神様の偉大さを語った後に、こう付け加えます。
「神様に比べたら、人間は知性の低い獣で、一かけらの知恵もありません。」(17節LB)
人間の根本的な問題は、神様よりも自分の方がすぐれていると思い込んでしまうことです。アダムとエバの問題もまさにここにありました。彼らへの誘惑の言葉は、
「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)
でした。

今日は主の日、へりくだって主を礼拝することによって一週間をはじめたいと思います。

「主よ、謙そんに、神を神として受け入れることができるように助けてください。」

エレミヤ50章

「彼らを贖う方は強く、その名は万軍の主。主は、確かに彼らの訴えを支持し、この国をいこわせるが、バビロンの住民を震え上がらせる。」(34節)

  バビロン帝国に捕囚されていったイスラエルの人々を贖う権利をもつお方は、強く、その名は万軍の主だと、傲慢になっていたバビロン帝国に告げます。

「彼らを救い出す者は強く、その名は天の軍勢の主だ。わたしは彼らの訴えを聞き、彼らが自由の身となり、再びイスラエルの地で静かに暮らせるように取り計らう。」(LB)

まさに、これが、この後に起こったことでした。

ですから私たちは確信をもって今、信じることができます。私たちを救い出す主は強く、その名は、天の軍勢の主です。私たちの訴えを、祈りを聞き、イスラエルの人々を導いたように、私たちを最善へと導いてくださいます。

「万軍の主、私を贖う方、救い主、イエス様、あなたは強く、私たちの祈りを聞いてくださることを感謝します。」

エレミヤ 49章

「さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。――主の御告げ。――そこにはとびらもなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。」(31節)

この箇所を現代訳では、『心に何の用心もない』と記されていますが、私たちの置かれている状況をよく現わしていると思います。それは、わたしたちが日々の歩みの中で、様々な情報にあまりにも無防備であり、御言葉を土台として取捨選択をしていないという現状とも言えるのではないでしょうか。心に締まりがない、というと言いすぎかもしれませんが、私たちがさらされている洪水のように押し寄せてくる情報は必ずしも私たちの益となるわけではありません。落ち込んでしまうような情報に時間を割くよりも、聖書を読み、祈り、神様のみこころを知る時間の方が、ずっと重要で充実していると思いませんか?この年、もっと聖書に親しむことができますように。

エレミヤ48章

「主のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ。」(10節)

 今日の箇所は、強烈な箇所です。LBでは、こう訳しています。
「わたしが与えた仕事に手をつけない者は、のろわれよ。」
使徒パウロは言いました。
「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:13,14)
信仰生活と言うのは、生ける神イエス・キリストとの関係です。イエス・キリストとの関係を築き上げるという目標を目指して一心に走るということをおろそかにするというのは、実は何の益にもならないというのが今日の箇所が私たちに伝えていることではないでしょうか。キリストとの関係を自分の人生の残り物ですまそうとするのならば、聖書が約束しているその豊かな人生を体験することは難しいことです。

エレミヤ47章

「パロがまだガザを打たないうちに、ペリシテ人について、預言者エレミヤにあった主のことば。」(1節)

 ユダの残された民は、どこの国へ行こう、どの国に頼ろうかと探していました。かつては敵であったペリシテ人のもとに助けを求めていこうとしたときに、神様はエレミヤを通して、ペリシテも滅びる運命にあることを告げます。神様は私たちが神様以外の何かに頼ろうとするとき、その寄りかかろうとしたものを取られることがよくあります。神様だけを頼るように仕向けることが多々あります。私たちは寄りかかれるような誰かを求めていないでしょうか。頼れるような何かを求めていないでしょうか。そのような人生はもろく、崩れやすいものです。ただ、神を求め、私たちのために命さえも捨ててくださったキリストを信頼し、聖霊の導きと助けに頼って生きていきましょう。

エレミヤ 46章

「わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。――主の御告げ。――わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが。」(28節)

 LBでは、こう訳しています。

「わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。わたしがついている。わたしは、おまえの寄留していたすべての国々を滅ぼすが、おまえには手をかけない。懲らしめはするが、それもお前の曲がった性根をまっすぐにするためだ。」

興味深いことに、ヘブル12章にこういう箇所があります。

「わたしの子よ。主に懲らしめられて、腹を立ててはなりません。主にあやまちを指摘されて、気落ちしてはなりません。主が懲らしめるのは、あなたが憎いからではなく、あなたを愛しているからです。」(5,6節LB)

「主よ、あなたの訓練を謙遜に受けとめられますように。」

エレミヤ 45章

「ネリヤの子バルクが、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたときに、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。」(1節)

45章はとても短い箇所ですが、そのすべてが書記バルクに関するものです。3節にはこのようなバルクの嘆きが記されています。

『ああ、哀れなこの私。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない。』

彼はエレミヤと共に同胞の痛み、苦しみ、そして不誠実を体験してきました。鬱状態に彼は苦しんでいたようにも見えます。しかし、神の器の側に立ち続けた彼に、神様はこう語ります。

「わたしはこの国民に大きな災いを下すが、おまえには報いとして、どこへ行っても守ってやることにする。」(5節LB)
彼の名前の入った文書が近年考古学者によって発掘され、その存在が確かであったことが確認されています。神の立てられた器の側に立ち続けた彼の名は今も覚えられています。