マタイ 28章

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(18節)

イエス様は弟子たちに、

「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6:10)

と祈るように教えられました。そして、私たちのために十字架で死に、葬られ、よみがえられました。復活されたイエス様は、みこころが天で行われるように、地でも行われるためのいっさいの権威が与えられていることを弟子たちに言われました。そして、あらゆる国の人々にこの知らせを伝えるように命じました。つまり、イエス・キリストは今も生き続けておられます。天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられると言う意味は、天においても、地においてもいっさいの権威をもつ、王座に着かれたということです。ですから、イエス様は言われます。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(20節)

マタイ 27章

「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。』と言った。しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ。』と言った。」(3,4節)

当時の宗教指導者たちは、ユダをそそのかし、間違った方向に彼を導きました。しかし、その責任はとってはくれませんでした。結局は、人は自分で自分の蒔いた種を刈り取るようにさせられてしまいます。日々、様々なメディヤを通して流れてくる情報も、たとえ私たちを誤った方向に導いたとしても、責任をとってはくれません。ですから、日々生ける神、イエス様の導きを求めて祈りつつ生きていく必要があります。自分で聖書のみことばを開いて、聖霊様の導きを求めて生きていく必要があります。イエス様が間違えることはありませんし、私たちを突っぱねることもありません。

マタイ 26章

「ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。』するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。『なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。」(7‐10節)

イエス様に高価なものを捧げることは無駄なことではありません。「こんなむだなこと」と憤慨した弟子たちも、別に、それを慈善のために捧げる気持ちがあったわけでもありませんでした。王の王、主の主なるイエス・キリストに礼拝を捧げるために、惜しみなく資源を用いることをもったいないと言う姿勢は、聖書的ではありません。今日は主の日です。イエス様に最高を捧げる姿勢をもつことができますように。

マタイ 25章

「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」(40,41節)

憐れみを示したか、示さなかったかという基準で裁かれるということでしょうか?

「永遠の火」は「地獄」のことだと考えられます。「悪魔とその使いたちのために用意された」とあるように、地獄は、そもそも人のためでないことが分かります。

興味深いことにこの文脈は、「やってあげた」と主張するグループと、そんなことも忘れているグループに分けられています。そして、前者が地獄に行き、後者が天国に入れられます。

自分の功績に生きるか、神の恵みに生きているかが問われるということなのかもしれません。

マタイ 24章

「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(36節)

この世の終わりに関する預言の箇所です。イエス様は、はっきりとこの世の終わりがいつか、誰も知らないと言っていますから、知っているという人は偽預言者であるということははっきりしています。教会はその日がいつか言及してはいけないのです。その日がいつか分からないから、私たちは日々、いい緊張感の中で生きることができます。いつ、キリストが再び来られてもいいように一日、一日を生活することを聖書は勧めています。キリストは言います。

「ちょうど、ノアの時代のように。当時の人々は洪水が襲う直前まで、宴会だ、結婚式だと陽気に楽しんでいました。何もかも押し流されてしまうまで、洪水のことなど信じようとしなかったのです。わたしが来る時も、それと同じです。」(同37-39LB)

マタイ 23章

「ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」(3,4節)

当時の宗教指導者たちは自分たちは高い道徳に生きていると思っていました。しかし、実際はできていませんでした。彼らはそのことに気づきもせずに人々を裁いていました。自分でさえ達成できない基準で人を裁くことはイエス様が一番嫌われたことでした。自分が出来ないことを他者に要求して、裁いていないでしょうか。イエス様は私たちを裁く代わりに、私たちの身代わりになって十字架で裁きを受けられました。ですから、私たちが傲慢になって、自分を棚に上げて人々を裁くことを嫌われるのです。

「主よ、あなたのあわれみを感謝します。私もあわれみ深い人にして下さい。」

マタイ 22章

「そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。」(12節)

「礼服を着ないで」というのは、別に結婚式に単にフォーマルを着て来なかったという意味ではありません。当時、招待する側は、その時着てくる礼服も準備するという習慣がありました。つまり、「礼服を着ないで」ということは、準備されていた礼服を着て来なかったという意味があるのです。礼服を準備するには、それなりに費用も、犠牲もかかったことでしょう。それなのに、それを着てこないというのは、準備した側に対して失礼な話であることは間違いありません。神様は私たちを招待するだけでなく、私たちに義の衣という礼服をすでに用意されました。それは、キリストの十字架と言う犠牲によって作られた礼服です。神様はすべての人を神の国に招待してはいますが、この礼服を着なければ、神の国に入ることはできません。

マタイ 21章

「ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」」(15,16節)

「ホサナ」は

「私を救ってください、お願いします」

という意味です。

「ナ」が英語の「Please」です。

もちろん、救うことが出来ない人にお願いしても意味がありませんから、自然とこれは自分たちを救うことができる救い主に対する賛美のことばとなりました。

「ホサナ」と言うたびに、

「あなたこそ、私を救うことができるお方です!」

という賛美となったのです。

この後一週間の内に、キリストは私たちを救うために十字架にかかられます。

マタイ 20章

「『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』」(6,7節)

「ぶどう園のよい主人」と呼ばれる有名なたとえ話です。ぶどう園の主人がぶどう園で働く人を雇うために朝早くでかけ、当時の平均的日給で契約します。その後、九時、一二時、一五時、一七時と出かけ、一八時までその作業は続けられました。賃金は、どの時間に来た人も同じ額だけ支払われました。それに腹を立てた朝早くから働いた人たちは文句を言います。しかし、契約上、主人は何の不正もしていません。これは神に対して打算的に仕えるべきではないという意味もあると思います。しかしそれ以上に、神の国の観点から考えますと、神に用いられて働けるというのは恵みだと言えます。たとえ、報酬が一緒でも、この世界で何をしているのか分からずに生きていくよりも、神の目的に生きていけるほうが充実した意義深い人生です。

マタイ 19章

「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。」(13‐15節)

親として子どもたちをイエス様に手を置いて祈っていただける距離に連れて行きたいというのは本心だと思います。幼い子どもたちが、たとえ理解することができなくても、教会の霊的雰囲気の中で育てられることは大変意味があることだと思います。シュバイツァーは、親の敬虔な姿を見て、神を畏れることを学んだと言います。大人が神を第一にして生きることが、次世代に対する祝福になるということも心に留めておきたい内容だと思います。

今日は主の日です。共に主の宮である教会を大切にしたいと思います。