民数記 30章

「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」(2節)

私たちは神に、「こうしてくだされればこうします」というような誓願をしてしまうことがあります。この章では、もし誓ったのならば、誓いを果たさなければならないということを命じています。しかし、イエス様はマタイの福音書の5章でこう言いました。

「どんな誓いも立ててはいけません。」(34節LB)

また、私たちは自分の約束を信じてもらおうと、「天にかけて」と言ってしまうことがあります。しかし、イエス様はそこまで言ってはいけないと言います。

「誓いを立てることで約束を信じてもらおうとするのは、悪いことです。」(37節LB)

私たちは自分を追い込まないためにも、軽々しく誓わないように気をつける必要があります。自分の言葉に責任をもつ必要があります。

民数記 29章

「第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。」(1節)

イスラエルの人にとって、荒野での生活を保つために、多くの仕事があったと思われます。しかしこの章では、何度も聖なる会合を開くことと、仕事を休むことが命じられています。荒野での40年間、彼らを肉体的、精神的、霊的に守ったのは、彼らが終わることのない仕事を休んで、集まって主を礼拝する時間を大切にしたからだと思われます。現代人は様々な仕事をこなすために時間に追われていますが、普段の仕事から離れて、集まって神を礼拝することが、私たちを肉体的、精神的、霊的に守ってくれるのだと思います。

今日はグッド・フライデー。イエス様の十字架を覚えましょう。

民数記 28章

「イスラエル人に命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしへのなだめのかおりの火によるささげ物として、わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない。」(2節)

約束の地を前にして、神はイスラエルの人々に再度ささげ物を命じています。それほど人というのは神にささげるという意識を与えられる必要があるということかもしれません。しかし、形式的にささげていればそれでいいというわけでもありません。ダビデは言いました。

「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16,17)

神が本当に求めているのは私たちの心であり、その心の現われとしてささげ物があります。

今日は洗足木曜日。最後の晩餐を覚えましょう。

民数記 27章

「そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した。」(5節)

マナセ族の娘たちが相続地に関してモーセに直訴しました。モーセは律法に明記されていないことを自分の裁量で判断せず、神のもとへもっていきました。モーセは神のみこころを第一とする指導者でした。私たちも同じように、神の前に出し、知恵を求めるという姿勢が大事だと思います。私たちは自分たちの経験や考え方から、良かれと思ってすぐ助言を与えてしまう傾向があると思います。しかし、まことの指導者はいつも神のもとにもっていくべきであり、人々にも自分ではなく、神のもとにもっていくように励ますべきです。なぜなら、私たちを最善に導くことができるのは、神だけだからです。

民数記 26章

「しかし、このうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエル人を登録したときに登録された者は、ひとりもいなかった。それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ。」と言われていたからである。彼らのうち、ただエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。」(64,65節)

約束の地を目の前にして、神は再度、イスラエルの民の人口調査を命じられました。一章で行われた第一回目の調査の時に数えられた者は、ヨシュアとカレブ以外はいませんでした。その理由は、ヨシュアとカレブ以外は神に従うよりも、自分たちの感情を優先してしまった結果でした。(14章参照)信仰生活は選択の連続でもあります。神を信頼する方を選ぶか、自分の感情を優先させるか、私たちは選択しなければなりません。

「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」(ローマ10:11)

民数記 25章

「娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。」(2節)

賀川豊彦という人はこう勧めたと言います。

「誘惑と戦うことなど考えず、誘惑から逃げなさい。」

イスラエルの人々は、誘惑に対してあまりにも無防備であったために落ちてしまいました。榎本保郎師はこう言っています。

「わたしたちはみんな弱い存在である。弱い者は逃げる以上の策を持っていない。(中略)それを卑怯だなどと思ってはならない。むしろそれこそ勇気を必要とすることであり、そんなところにクリスチャンの強さを示すべきである。(中略)善をしようとする意志があることと、それを行う力があることと同一ではない。」

私たちは自分の弱さを自覚し、誘惑に対して「自分は大丈夫」などと過信せずに、気をつけることが大切です。

民数記 24章

「『たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、主のことばにそむいては、善でも悪でも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。』今、私は私の民のところに帰ります。」(13, 14節)

新約聖書の中にバラムに関してこんな記事があります。

「バラムと似て、金のためなら、どんなことでも平気でするからです。」(ユダ11節LB)

神様はバラクに、バラムのところに行ってはならないと言われたのに、結局は富に誘惑されて行きます。彼のロバが話すという驚くような奇跡によって彼は警告を受け、神が告げることだけを告げることはします。今日の箇所は、彼が富に左右されないと言っているように感じますが、実は彼の富の誘惑は終わっていませんでした。次の章の事件はバラムの策略であったと一般的に考えられています。

今日は棕櫚の主日。ロバの子に乗ってエルサレム入城をされたイエス様を覚えつつ、イエス様の真実に感謝しましょう。

民数記 23章

「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」(19節)

神と人間には大きな違いがあります。創造主と被造物と言う違い以外にも、今日の箇所では3つの違いが出てきています。

まず、第一番目に人は偽ることがあっても神は偽ることはありません。

第二番目に人は罪を犯すので、悔いる必要がありますが、神は罪を犯すことはありませんので悔いることはありません。

第三番目に人は言ったことさえ実行できないところがありますが、神は約束されたことは必ず成し遂げられるお方です。バラクは言いました。

「その神様が、『祝福しなさい』とお命じになったのです。神様の祝福を変えることはできません。」(20節LB)

詩篇133篇では、私たちが礼拝をするために共に集まるそのところにとこしえのいのち祝福が命じられると言っています。

民数記 22章

「バラムは主の使いに申し上げた。『私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。』」(34節)

イスラエルの民がモアブの地に来たとき、モアブの王バラクはイスラエルの人々のうわさを聞いて恐れました。それで預言者バラムを招いてイスラエルをのろってもらおうとしました。最初、神はバラムに行ってはいけないと命じますが、再三の求めに対して、行くことを許可されます。ある牧師は神のみこころには二種類あると言います。「完全な、直接的なみこころ」と、「許可されたみこころ」です。神は私たちにご自身の明確なみこころを語られますが、私たちが反論するときに、私たちの自由意志を尊重して許可をされます。許可されていても、神の道とは反対を向いていることもあります。自分を主張するのでなく、神の明確なみこころを求めましょう。

民数記 21章

「民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」」(5節)

荒野を旅する彼らに、毎朝天からマナが降ってきました。しかし、彼らは驚くような奇跡のマナを、「みじめな食物」と呼びました。榎本師はこう言います。

「いつとはなしに神の言葉を求めなくなった。あたかも生の秘密のすべてが聖書の中に隠されてあるかのごとくに思って、尋ね求めた時代、そうした初心がいつの間にか忘れられ、現実の生活の方が大きくなり、この現実を生きていくのにみ言葉がとるに足りない軽いものに思われるようになったとき、私たちは求めることを怠るようになる。そして求めることを怠るとき、私たちは何ものも受けることが出来なくなり、この世の真中で飢えて死にそうになる。(中略)神に帰る以外に私たちの真の解決はない。」