使徒 13章

「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。」(38節)

使徒パウロは、旧約聖書の出エジプトまでさかのぼって、福音を提示しました。

「バルナバと私もまた、この喜びの知らせを伝えようと、こうしてやってきました。その知らせとは、神様がイエスを復活させたことによって、私たちの先祖への約束が今の時代に実現したということです。」(32,33節LB)

イエス・キリストの十字架の死と復活により、神の約束は実現しました。ですから、パウロは言います。

「聞いてください、皆さん!このイエスこそ、皆さんの罪を赦してくださるのです。イエスを信じる人はみな、すべての罪から解放され、正しい者と宣言されるのです。これは、モーセの律法ではどうしてもできないことでした。」(38,39節LB)

この喜びの知らせを、私たちもまた伝えていくように託されています。

使徒 11章

「こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」(17節)

ユダヤ人以外の外国人も、キリストを信じたという知らせを聞き、ユダヤ人のクリスチャンたちはペテロを批難しました。彼らが正しいと考えていたことに反する行動をペテロがとったからです。ペテロは、はっきりと言います。

「私たちが主イエス・キリストを信じた時に与えられたのと同じ賜物を、神が外国人にも与えられたのなら、だれがそれをとどめられるでしょう。」(LB)

神がなさることを、自分たちの理解の枠組みに入らないからと言って、どうして妨げていいだろうかというこのペテロの発言は、現代に生きる私たちへの警告でもあると思います。

神の働きを妨げていないでしょうか?

使徒 10章

「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。」(44節)

使徒ペテロは、自分が見た幻とユダヤ人ではないコルネリオの話を聞いて悟りました。ペテロは言います。

「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」(34,35節)

そして、そのことを証明するかのごとく、聖霊が、ペテロが話し続けている時に、そこにいた一人一人にお下りになりました。

「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」(46節)

聖霊は、今も、神のみことばに真剣に耳を傾ける、神を礼拝するすべての人の上にお下りになります。

今日は、ペンテコステの日。共に聖霊なる神様を待ち望みましょう。

※ 本日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)! 本日の第3礼拝は、午後15時からの鶴見の合同聖会に合流するため、お休みです。

使徒 9章

「彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(5節)

パウロは、キリスト教徒を迫害していました。ダマスコにある教会を迫害しに行く道の途中、イエス様がパウロに現れました。パウロが

「あなたはどなたですか」

と尋ねると、イエス様は

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

と答えられました。パウロが迫害していたのは教会であり、キリスト教徒でした。しかし、イエス様は、ご自身を教会と同一視されました。教会を迫害するのは、イエス様を迫害するのと同じだと。

教会は不完全な人間の集まりですから、問題がないわけではありません。しかし、イエス様はそんな欠けだらけの教会を、ご自分と同一視されました。ですから、地域教会を軽視することは、イエス様を軽視することと同じです。目に見える教会を愛することが出来なければ、目に見えない神を愛することはできません。

使徒 8章

「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(4節)

エルサレム教会に対する迫害が起こり、使徒たち以外のクリスチャンはみな、散らされてしまいました。しかし、そのような否定的な状況によって信仰を失うどころか、

「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(4節)

と聖書は言います。戦後、日本に来た多くの宣教師たちは、中国から追放されたためにやってきました。一つの宣教の扉が閉ざされたことによって、新しい扉が開いたのです。宣教師たちは、散らされたその場所で、再びみことばを宣べ伝えました。神の働きはそのように前進します。目の前の扉が閉ざされた時は、新しい扉が開かれる時です。扉が閉ざされた時は終わりではなく、新しいことに神が召しているからかもしれません。マイナスは必ずプラスになります。

「どのような状況でも、どこに行っても、主のみことばを宣べ伝え続ける姿勢をもちつづけることができますように。」

使徒 7章

「そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父祖アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、」(2節)

初代教会の執事(教会役員)の一人、ステパノは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために捕えられ、議会にひっぱられて行きました。ステパノは、アブラハムから、すなわち、創世記からはじめて、旧約聖書全体の話をしました。

「主であるわたしは変わることがない。」(マラキ3:6)

と言われるように、神様の人類に対する取り扱いの原則は変わることがないと言っているようです。そして言います。

「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」(51節)

残念なことは、それを聞いた人々は、悔い改めることなく、はらわたが煮え返り、石を投げつけステパノを殺してしまったということです。

使徒 6章

「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(4節)

ユージーン・ピーターソンという学者は言います。

「教会の中に罪があるので、教会に問題を抱えない人はいません。しかし、他にクリスチャンがいる場所はありません。」

教会における人間関係の摩擦は、残念ながら避けられないものなのだと思います。教会が誕生してすぐ信徒の中に対立が生まれました。使徒(教職者)たちは、聖霊に満ちた評判の良い信徒リーダーたちにこの問題を委ねて、自分たちは祈りとみことばの奉仕に専心することにしました。

教会は気をつけないと、「祈りとみことば」の時間よりも、「会議(議論)」をする場になりかねないからだと思われます。

教会はまず何よりも、祈りの場でなければなりません。

聖書の御言葉が語られ、聖書を共に読み、学ぶ場でなければなりません。

問題に対処することに追われるならば、本来あるべき姿を見失ってしまいます。

「祈りとみことば」が教会のあるべき姿です。

使徒 4章

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(12節)

 グローバル化の影響もあり、私たちは他宗教との共存を真剣に考えなければならない時代に生きています。信教の自由は国家として保障され、互いに尊重される必要があります。それは受動的にも保障されるべきですが、能動的にも保障される必要があります。私たちは自分たちの信仰を公にすることも保障される必要があります。他宗教を信じる人たちを尊重しつつも、私たちはイエス・キリスト以外には救いはないことを公に告白し続ける必要があります。イエス・キリストを信じなければ人は救われないということは聖書が語る真理であり、本質だからです。LBはこう訳しています。

「この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。」

使徒 3章

「神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」(26節)

ベン・ウィザリングトンという学者がこんなことを言っています。

「イエスはありのままのあなたを愛しているが、そのままで受け入れてはいない。イエスはあなたを変えたい。」

もし、私たちがこの世の価値観のままに生きているならば、必ずふるいにかけられる時がきます。私たちが神の国の価値観に立ち返るようにされます。聖書は言います。

「愛する皆さん。この地上では、あなたがたは単なる旅人であり、一時の滞在者にすぎないのですから、あなたがたのたましいに戦いをいどむ、この世の快楽から遠ざかりなさい。」(Ⅰペテロ2:11LB)

神がまず、神の御子、イエス・キリストを遣わしてくださいました。今日は主の日。神の国の価値観に生きることを選択できますように。」

使徒 2章

「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」(33節)

ペンテコステ(五旬節)の日、

「みなが一つ所に集まっていた」(1節)

ところに聖霊が臨まれました。

「神の右に上げられた」

という意味は、「神の権威が与えられた」という意味です。イエス様はもちろん、権威あるお方ですが、十字架の死と復活によって、天においても地においてもいっさいの権威を受けられました。イエス様もこのように言われました。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」

まさに、イエス様が栄光の御座に着座された証拠として、聖霊が注がれたということです。弟子たちは、この時、

「一つ所に集まっていた」

とあります。どんなにインターネットが普及しても、一つ所に集まっていた所に聖霊が注がれたように、今も一つ所に集まるところに聖霊が注がれます。