1コリント 11章

「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。」(21節)

教会は様々な人々が集まる場所であり、問題が起こるのもやむをえない場所でもあります。コリントの教会もそうでした。コリントの教会は食事会をもっていましたが、貧富の差から生じる愛のない行為が横行していました。この箇所でパウロは、教会における食事会の本当の目的を思い出すように言います。単に自分の食欲を満たすためならば、家で食べればいいとまで言います。大事なことは、キリストの愛、十字架型の生き方を実践することであり、互いを思いやることだと言うのです。イエス様は多くの人と共に食事をすることを楽しまれました。イエス様は自分の時間、食物を分かち合うことを楽しまれたのです。私たちは他者を満たすことによって、自分も満たされるということを忘れてはいけません。

1コリント 10章

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(31節)

ウエストミンスター小教理問答書に、

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

とあります。私たちの人生の根本的な原則がここにあります。私たちは、神の栄光のために生きています。

「神に栄光を帰す」、

これが私たちの存在目的です。もし、何であれ神に栄光を帰すことができるのであれば、私たちは堅い岩の上に立っています。私たちが、人生の中で、すべきかすべきでないか悩んだときに、これが基準になります。

「私はこのことを、神の栄光のために行うことができるだろうか?」

私たち、栄シャローム福音教会の目的は、

「私たちの必要に唯一答えることができる、今、生きておられるイエス・キリストを指し示すことを通して、神に栄光を帰すこと」

です。

1コリント 9章

「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。」(22,23節)

使徒パウロの願い、それは一人でも多くの人が、イエス・キリストに出会い、救われることでした。LBではこの箇所をこう訳しています。

「その人が救われるためには、私はどんな人に対しても同じ立場に立とうと心がけています。これは福音を伝えるためであり、また、キリストの救いに導かれる彼らを見て、私自身も祝福を受けるためなのです。」

彼は、

「私自身はそのことに同意していなくても、議論したりはしません。何とかして彼らを助けたいからです」(20節LB)

と言い、

「『それは考えが足りない』などと指摘したりはしません。すると、彼らのほうでも心を開いてくれます」(22節LB)

と言います。

このような配慮に満ちた魂に対する情熱がクリスチャンに必要なのだと思います。

1コリント 8章

「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(1,2節)

ある牧師は、この箇所をこうまとめていました。

「自分は何でも知っているという人は、知らないということを知らない。」

情報過多に生きる私たちの問題は、すぐに自分が何でも知っているかのように傲慢になってしまうことです。自分の意見、自分の判断がいつも正しいと思ってしまうのです。しかし、大事なのは愛だと聖書は言います。聖書は愛の優先性を教えています。その良い例が、当時の宗教学者とイエス様のコントラストです。当時の宗教指導者たちは、知識を優先させました。そして、知識をもっていなかった当時の人々を蔑みました。しかしイエス様は、(どんな人よりも知識がありましたが)愛を優先されました。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

1コリント 7章

「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。」(32節)

イエス様は言われました。

「…御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない…」(マタイ13:22共)

世の思い煩いが、私たちの人生を実らせないようにします。それで聖書は何度も、

「思い煩わないように」

と言います。思い煩いが私たちの目をキリストから離させるからです。いろいろな思い煩いがありますが、31節にはこうあります。

「この世の魅力的なものに接する機会の多い者たちは、その機会を正しく利用し、おぼれることがないようにしなさい。現在あるがままの世界は、やがて過ぎ去るからです。」(LB)

「ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。」(35節)

1コリント 6章

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(20節)

私たちのからだは、イエス様の血潮で贖われたと言います。価値があると言います。聖書は禁欲生活を勧めているのではなく、正しく用いることを勧めています。「聖霊の宮」として、私たちの体を通して人々が神を見ることができるような生活を心がけなさいと言います。それは、つまり、私たちの体を管理するということです。やがて天国に行くまでのものだからと、自分の体をいい加減に扱うことは、聖書が教えている内容とは反します。適度な食事、適度な運動、適度な休養も、聖書が私たちに求めている内容です。パウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」と訴えます。イエス・キリストの十字架の死は、私たちのこの肉体のためでもあったということを心に留める必要があります。

1コリント 5章

「私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。」(9,10節)

世捨て人というのは、聖書的ではありません。私たちの役割は、この世に生き、様々な人たちとの関わりの中で、イエス・キリストの福音を伝えることです。人は心が変えられる必要があります。私たちを内側から変えることができる方、イエス・キリストを紹介することによって、この世界は変わることができます。変えられたクリスチャンたちが、この世界を変えることができます。私たちはこの世界から出て行くことではなく、この世界に出て行くことを勧められています。

1コリント 4章

「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」(5節)

パウロは、あくまで主が裁かれるのだから、私たちが互いに結論を下すべきではないと主張します。彼自身、自分でも裁かないとまで言います。パウロは、イエス様が、

「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7:2)

と言われたことを心に留めていたのだと思います。聖書がはっきり約束していることは、イエス・キリストが再び来られること、そして、すべてを裁かれることです。私たちが知る由もないことも、神はすべてをご存じです。ですから、裁く役割は主にお委ねし、愛する役割に生きましょう。

1コリント 3章

「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(17節)

パウロははっきりと「神の神殿」はキリストを頭とする共同体、「教会」のことだと言います。キリスト教信仰は、神との個人的な関係という部分がありますが、「あなたがた」という共同体の部分もあります。信仰は個人的な側面がありますが、互いを必要としています。「神殿」とは、天と地が重なり合う場所です。キリストの御名によって祈り合う共同体のただ中に、天と地が重なり合います。この地に、神の国がもたらされます。それでパウロは、教会を否定したり、攻撃したりすることに対して警告を発します。新約聖書の時代、教会に集まる意味を見失った人たちがいました。(ヘブル10:25参照)。そのような人たちを意識して、この警告が発せられているのだと思われます。

1コリント 2章

「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(5節)

私たちの持つ信仰は、神の力にささえられる必要があります。自分の努力で何とかしようとすると、私たちは自分たちの欠けを隠そうと演じるようになります。もしくは、不正直になります。神の力にささえられるという意味は、イエス・キリストの十字架の恵みの中に生きるということです。日々、イエス・キリストが必要であることを認め、イエス・キリストの十字架の御業を感謝しつつ、へりくだって生きることです。そのためには、日々、イエス・キリストとの関係を築く必要があります。イエス・キリストが必要であることを認め、日々、呼び求める必要があります。使徒パウロも「弱く、恐れおののいていました」(3節)という時がありました。しかし、自分の弱さの中で、神の力が現されるのを体験しました。