2列王記 2章

「渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。」(9節)

預言者エリヤがエリシャに、何でも「求めなさい」と言いました。もし、自分がエリシャの立場だったら、何を求めるでしょうか?この世の一時的な楽しみを求めるでしょうか?エリシャが求めたのは

「エリヤのいのちが、自分の人生に繰り返されること」(メッセージ訳)

でした。エリシャは、エリヤのような人生を歩みたかったのです。それはエリヤがそうであったように、自分も聖霊の力で満たされて生きたいという祈りだったと思います。旧約聖書の時代、聖霊は限定的な人にしか注がれませんでした。しかし、ペンテコステの日以来、聖霊はキリストを信じるすべての人に注がれます。

2列王記 1章

「そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリヤの王の使者たちに会い、彼らに言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。」(3節)

「バアル・ゼブブ」は「ハエの主」という意味で、ハエによって疫病が運ばれるので、災いをもたらす悪神として恐れられていたと言われます。新約では「ベルゼブル」「ベルゼブブ」と呼ばれ、悪魔的要素を持つものとして提示されています。イスラエルの王は、まことの神を拒絶した結果、そのような悪魔的要素をもつペリシテ人の悪神に助けを求めたと言うのです。イエス様は言われました。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)

悪魔に助けを求めても騙され滅ぼされるだけです。

今日は主の日。主を求めましょう。

1列王記 22章

「すると、ケナアナの子ゼデキヤが近寄って来て、ミカヤの頬をなぐりつけて言った。『どのようにして、主の霊が私を離れて行き、おまえに語ったというのか。』」(24節)

預言者を自負していたゼデキヤが、ミカヤの頬をなぐりつけたというところに、主の霊がすでに彼を離れていたことが分かります。なぜなら聖霊の実は

「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)

しかも新約聖書にはこんな箇所もあります。

「しかし、神からの知恵は純粋であり、平和とおだやかなやさしさに満ち、思いやりと良い実に満ちています。」(ヤコブ3:17LB)

「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(Ⅰコリント13:2新共同訳)

「神のしもべは争いません。」(Ⅱテモテ2:24)

ユージーン・ピーターソン師は、こんなことを言っています。

「反対者を殺すことは野獣の問題解決方法。私たちの方法はではない。私たちの方法は忍耐と信仰。」

1列王記 21章

「アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家にはいった。イズレエル人ナボテが彼に、「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲れません。」と言ったからである。彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった。」(4節)

アハブ王は自分の思い通りに欲しいものが手に入らなかったため、子どものように不機嫌になりました。貪りは人を、満足ができない惨めな存在にし、とんでもない悪に導きます。サタンの嘘は、

「もし、これがあれば、あなたは幸せになれる」

というものです。しかし神との関係以外に私たちを満足させるものはありません。使徒パウロは言いました。

「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」(ピリピ4:11)

「学びました」ということは、あのパウロでさえも、以前にそれを知らなかったということでもあります。スポルジョン師はこう言います。

「兄弟よ。あなたがつぶやくのは無理もないが、つぶやきをやめて満ち足りることを学ぶ大学の勤勉な学生であれ。」

1列王記 20章

「主はこう仰せられる。『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。』」アハブが、「それはだれによってでしょうか。」と尋ねると、その預言者は言った。「主はこう仰せられる。『諸国の首長に属する若い者たちによって。』」アハブが、「だれが戦いをしかけるのでしょうか。」と尋ねると、「あなただ。」と答えた。」(13,14節)

アハブはどうしようもない悪い王でした。しかし、神は、イスラエルの人々を救うためにアハブを用いると言われたのです。神の恵みの世界は私たちの理解をはるかに超えています。ふさわしくないアハブにもう一度チャンスを与えて、主こそ神であることを知らせるというのです。もしかしたらアハブは自分なんかを神は用いないと思って「だれが?」と尋ねたのかもしれません。しかし主は「あなただ。」と言われました。

1列王記 19章

「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。」(11,12節)

神は激しい大風の中など、ドラマティックな超自然的な現象の中におられると思います。しかし、「かすかな細い声」、「静かにささやく声」(新共同訳)で、神はエリヤに語られました。激しい大風や火の中で語られることを期待するがゆえに、聞くことができないということはないでしょうか。静まって、神の御声に耳を傾ける時間は大切です。超自然的に神が語られることを期待するよりも、静かに聖書を開き、今も、「静かにささやく声」で語りかける神の御言葉に心を向けましょう。

1列王記 18章

「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。それから、彼は若い者に言った。『さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。』若い者は上って、見て来て、『何もありません。』と言った。すると、エリヤが言った。『七たびくり返しなさい。』」(42,43節)

今日の箇所の出来事を、新約聖書のヤコブ書ではこう引用しています。

「正しい人の祈りは大きな力があり、驚くほどの効果があります。エリヤは私たちと変わらない人でしたが、雨が降らないようにと熱心祈ると、三年半ものあいだ一滴の雨も降りませんでした。そして、再び雨が降るようにと祈ると、激しい大雨が降って、草木も作物も青々と実るようになりました。」(5:16-18LB)

何度祈っても、何も起こっていないと感じる時があると思います。エリヤの祈りは、あきらめずに熱心に祈り続ける人の姿です。必ず、小さな雲が水平線から上ってくる時が来ます。

1列王記 17章

「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」(16節)
 飢饉の時、神はツァレファテに住むやもめに預言者エリヤを養うように導かれました。しかし、そのやもめも一握りの粉しか残っていませんでした。やもめの信仰は試されました。彼女は神のことばに従ってその最後の粉を預言者エリヤに捧げました。すると、
「主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。」(口語訳)
神のことばは地に落ちることはありません。スポルジョン師はこう言います。
「愛する友よ。あなたは日ごとに必要なものがある。それが豊かに与えられるので、いつかかめの粉がなくなるのではないか、つぼの油は尽きるのではないと恐れている。しかし心配してはならない。(中略)神の恵みとあわれみはあなたの必要の一切を満たす。」

1列王記 16章

「彼がティルツァにいて、ティルツァの王の家のつかさアルツァの家で酒を飲んで酔っていたとき、彼の家来で、戦車隊の半分の長であるジムリが彼に謀反を企てた。」(9節)

イスラエルの王エラは、酒を飲んで酔っていた時に、自分の家来に殺されてしまいました。ある人はこう言います。

「人類の歴史では、戦争で殺された人よりも、泥酔(深酒)のゆえに殺された人の数の方が多い。」

イエス様はおっしゃられました。

「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」(ルカ21:34)

また、エペソ書5:18を、口語訳では

「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。」

新共同訳では

「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。」

と訳しています。

「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(新改訳)

今日は主の日。聖霊に満たされましょう!

今日からアドベント(待降節)。祈りと賛美をもってクリスマスを迎えましょう。

1列王記 15章

「アサは主の宮の宝物倉と王宮の宝物倉とに残っていた銀と金をことごとく取って、自分の家来たちの手に渡した。アサ王は、彼らをダマスコに住んでいたアラムの王ヘズヨンの子タブリモンの子ベン・ハダデのもとに遣わして言わせた。」(18節)

今日の箇所のアサ王の行動に関して、歴代誌第二の方で詳しく記されています。

「そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。『あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。」(16:7)

アサ王のそのような姿勢は、別の箇所にも見られます。

「彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。」(Ⅱ歴代誌16:12)

医者を求めること、他国に助けを求めること、それ自体が悪いという意味ではないと思います。問題は、神よりもそれらのものに拠り頼んでいたということです。