ヨブ記 20章

「私の悟りの霊が私に答えさせる。」(3節)
「私の悟り」というものに対する危うさを理解する必要があります。箴言にこういう箇所があります。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(3:5)
「自分の悟り」に頼る時、問題が起きます。聖書のみことばが「自分の悟り」と違う時に、聖書のみことばを曲解するか、「難しい」と受け入れなくなるからです。ヨブの友人ツォファルは「自分の悟り」が邪魔して、結果的にヨブを攻撃しました。「自分の悟り」ではなく、まず、主を求めることが大切です。主は全知全能の神、すべてをご存知です。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8,9)

ヨブ記 19章

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)

ヨブは苦しみの中、驚くような預言的ことばを発します。「だが、わしは知っている。わしを救うお方は生きておられ、ついには地上に降り立つのだ。この肉体が朽ち果てたのち、わしは新しい肉体で神様を見る。」(25,26節LB)旧約聖書には死後の世界に関する言及はありません。しかし、この箇所で明らかにヨブは死後の希望を語っています。ヨブは、この世がすべてではないこと、この世のからだがすべてではないことを理解します。ヨブは、死を越えたところに、永遠のからだに復活する日を確信したのです。私たちは、私たちを贖う方、キリストが死の力を打ち破ってよみがえられ、今、生きておられることを知っています。私たちは、ヨブよりももっと確信をもって、希望を宣言することができます。「私たちを贖う方、キリストは今生きておられる!」

ヨブ記 17章

「神は私を民の物笑いとされた。私は顔につばきをかけられる者となった。」(6節)

まさに、これこそ、文字通り十字架のイエス様が体験されたことでした。人々はイエス様をあざ笑い、つばきをかけました。ヨブは正しい人でしたが、イエス様は神の子であり、完全にきよいお方でした。

「義人の苦しみ」

こそ、十字架のイエス様の姿でした。どうしてイエス様は、このような苦痛を受けなければならなかったのでしょうか。この世界でヨブの気持ちを理解することができる人がいるとしたら、それはイエス様です。聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

イエス様は私たちを愛されるがゆえに、私たちと痛みを共有するために、苦痛を受けられました。

ヨブ記 16章

「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。」(19節)

ヨブは、家族からも、友人からも理解されず、彼の唯一の希望は天にて自分をとりなしてくださる存在でした。

「その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」(21節)

ヨブはその方がよく分かりませんでした。しかし、私たちは今、その方を知っています。聖書は言います。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)

私たちは、問題の中で、このお方に目を向けることができます。私たちはその方を知っています。十字架の上で、私たちと同じように神に見捨てられたように感じる時を体験された神の御子が、私たちの思いを理解し、今日もとりなしてくださっています。

ヨブ記 15章

「実に、神を敬わない者の仲間には実りがない。」(34節)

ヨブ記、箴言、詩篇のヘブル語の頭文字を並べると、「真理」という意味のことばになります。それで、この三つの書を「真理の書」と呼びます。箴言は、一般的な原則が記されていますが、ヨブ記は例外が記されています。一般的な原則から考えれば、このエリファズの言葉は「アーメン」と唱和できる内容だと思います。しかし、エリファズの言葉は、実りがないヨブにとっては裁きの言葉でもありました。つまり、ヨブは神を敬わない者の仲間になっていると。信仰者が苦しむのは、自分は実りがないのに、神を敬わない者たちが実りあるように見える時です。しかし、ここに、神からの私たちに対するチャレンジがあります。それは、私たちの信仰の動機は何かということです。「あなたは、なぜ、神を敬うのか?」と問われているのです。
今日は主の日。神を敬い、神に礼拝を捧げましょう!

ヨブ記 14章

「人が死ぬと、生き返るでしょうか。」(14節)

前の7節で、ヨブは、こう言います。

「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。」

ヨブのポイントは、木には望みがあるのに、私たち人間にはないということでした。これが、旧約(古い契約)の世界の限界です。復活の希望がなかったのです。ですから、イエス・キリストは十字架にかかり、死に、葬られ、死の力を打ち破って復活する必要がありました。

「確かに希望がある。」

と私たちに宣言する必要があったのです。この世がすべてではなく、確かに、この世の向こうに永遠の世界があることを現す必要があったのです。キリストにある私たち、新しい契約に生きる者は、ヨブの疑問に答えることができます。

「はい。生き返ります!」

「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。」(エゼキエル37:14)

ヨブ記 13章

「神があなたがたを調べても、大丈夫か。あなたがたは、人が人を欺くように、神を欺こうとするのか。」(9節)

ヨブの友人たちの問題は、自分を棚上げにして神の代弁者のようにヨブを有罪だと責めていたことでした。そんな友人たちに対してヨブは言います。

「神様は一度だって、あんたたちの言っているようなことを口になさらないのに、それでもなお、神の代弁者面をするつもりか。」(7節LB)

そしてヨブは、神を恐れていたら、こんなことができるはずがないと言います。私たちは、神の代弁者のように誰かを責める思いがあるならば、このヨブの言葉を心に留める必要があります。

「神があなたがたを調べても、大丈夫か。」

神は私たちに神を弁護して欲しいと願っているわけではありません。神が被告人で私たちの弁護を必要としているのではありません。神が願われているのは、私たちが弁護者になることではなく、まことの弁護者、イエス・キリストを指し示すことです。

ヨブ記 12章

「知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。」(13節)

メッセージという訳では、こう訳しています。

「真の知恵と本物の力は神のもの。神から私たちはどうやって生きるか、また、何のために生きるかを学ぶ。」
私たちは聖書を誤りなき神のことばであり、信仰と実践(生活)の唯一の規範だと信じています。私たちは聖書を学ぶ時、ここに真の知恵と本物の力があると信じています。聖書から、どうやって生きるか、何のために生きるかを学ぶことができると信じています。歴史の中に、賢人と呼ばれる人はたくさんいました。様々な学派が生まれては消えていきました。しかし、聖書は「神のことば」として、今も、昔も、これからも変わらずに語り続けています。賢い人たちが、自分が生きている時代の風潮に合わせて聖書を作り直そうとしても、神のことばは人の愚かさを超えて、その力を現されてきました。へりくだって神のみことばを学び、生きていきましょう。

ヨブ記 11章

「知れ。神はあなたのために、あなたの罪を忘れてくださることを。」(6節)

このヨブの友人ツォファルの言葉の何が問題なのでしょうか。問題は、彼が自分を棚上げにしてヨブを罪人扱いしたことでした。ヨブは、神が認める潔白な人だったのです。しかし、彼はヨブが何か悪いことをしなければ、こんなことが起こるはずがないと悔い改めを迫ったのです。この世にはそのような考え方があります。不幸が起こるのは、何かしら理由がある。高いお金を払って供養をしなければいけないとか、修行をしなければとか、何かを買って償わなければいけないとか…。この世の新興宗教は、人間の弱みにつけこんできます。しかし、イエス・キリストは、言います。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:3)

イエス・キリスは私たちの罪のために死んでくださいました。イエス・キリストを信じる者が罪の宣告を受けることはありません。

ヨブ記 10章

「私にかまわないでください。私はわずかでも明るくなりたいのです。」(20節)

苦しみの中にあるヨブの叫びに、共感できるものがたくさんあると思います。ヨブは、わずかでも明るくなるために、神に

「かまわないでください」

と言いました。ヨブが心底そう思ったかはわかりませんが、そう言いたくなった気持ちは分かります。問題の中で、人はどうして神から離れようとしてしまうのでしょうか?もちろん、人は誰もが神を必要としています。それなのに何が私たちを神から遠ざけてしまうのでしょうか。「結局、自分の力では神に認められない」と悟る時、「それならもういっそ、かまわないで欲しい」と開き直ってしまうからではないでしょうか。私たちはヨブとは違い、イエス・キリストの十字架を見上げることができます。イエス・キリストの十字架は私たちに、神は今も生きて働かれ、希望の朝、復活の日が待っていることを示します。神の介入を求めましょう。