ヨブ記 30章

「私はあなたに向かって叫びますが、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。」(20節)

信仰者にとって一番辛いのは、神が答えてくださらない、見捨てられたように感じる時だと思います。イエス様も、十字架の上で叫ばれました。

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになるのですか。」

しかし、現実は、神は見捨てていたわけではありませんでした。十字架を通して神は勝利をとられ、復活はそれを証明しました。神はヨブも見捨てていたわけではありませんでした。この後、実際に神が介入されますが、神が別にヨブに目を留めていなかったわけではなかったことが分かります。たとえそう見えなくても、神は私たちを見放すことも、見捨てることもありません。理解できない、判別もできない暗やみの中で、この明確な真理を手放してはいけません。

ヨブ記 29章

「私は義をまとい、義は私をおおった。私の公義は上着であり、かぶり物であった。」(14節)

ヨブは本当に祝福されていた人でした。地域社会においても彼は人々から敬意を受けていました。なぜならば彼は正義を行なう人だったからです。彼はどんな人に対しても正しい扱いをしました。しかし、正しく生きているからといって病気をしないわけではありませんし、問題に巻き込まれないわけではありません。だからといって神を否定すれば問題が解決されるわけでもありません。私たちが求められていること、それは、苦しみの極みである十字架にかかられたイエス・キリストを見あげることです。義人イエスが十字架にかかられたのは、私たちの罪の贖い、そして神の国をもたらすという目的がありました。私たちの苦しみにも意味があります。

今日はペンテコステ。聖霊を求め、主を礼拝しましょう。

※ ペンテコステおめでとうございます。本日のSSCは、15時より、鶴見での合同聖会に合流。第三礼拝はお休みです。

ヨブ記 28章

「しかし、神はその道をわきまえておられ、神はその所を知っておられる。」(23節)

28章は、知恵の賛歌です。ヨブは言います。

「では、知恵はどこから来るのか。悟りのある所はどこか。それはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にもわからない。」(20,21節)

鉄や銀や金を発掘できても、知恵は発掘できません。知恵は神から来ます。私たちが正しく生きる動機、それは因果応報の故でなく、神の知恵がそう教えるからだとヨブは言います。

「さて、神様が全人類に言うことは、こうだ。『神を恐れることがほんとうの知恵、悪を捨てることがほんとうの悟りだ。』」(28節LB)

「主よ、あなたの知恵を求めます。日々、神をおそれることを選ぶことができますように。」

ヨブ記 27章

「私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。」(5節)

「潔白」と訳されたことばを、英語の訳では「INTEGRITY」(正直、清廉、高潔、誠実)と訳しています。タイヤのビスが一つ外れたからと言って、すべてのビスを外す必要はありません。逆境のときに、うまくいかないときに、私たちはヨブのように宣言する必要があると思います。友人たちに責められながらも、それでも、私は死ぬまで私は自分の人間としての尊厳を手放さないと。自分がたとえ理解できなくても、神はすべてをご存知です。そして、私たちの神は、私たちを愛し、私たちの人生に関心を持ち、私たちに最善をなしてくださるお方です。ヨブの苦難にも終わりがあったように、私たちもやがてトンネルを抜け出すときが来ます。ですから、ヨブのように、キリストのみ顔を拝するときまで、自分の尊厳を離さないようにしましょう。

ヨブ記 26章

「見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けえようか。」(14節)

人間の悟りの問題は、神の道の外側しか分からないということです。ヨブの友人たちの話している内容は、宗教家であれば誰でも発言するような内容ですが、ヨブには何の助けにもなりませんでした。これが、宗教の限界でもあります。人間の側からのアプローチの限界です。しかし、神の側からのアプローチがキリストによって人類にもたらされました。キリストを信じる者の心の内に、聖霊が住んでくださり、神の心を感じることができるようにしてくださいました。聖書を与え、聖書を通して神の思いを聞くことができるようになりました。私たちは今、神とのコミュニケーション手段が与えられています。祈ることができます。聖書を開くことができます。誰かの声ではなく、聖書の御言葉を探しましょう。

ヨブ記 25章

「どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう。」(4節)

ビルダデのポイントは、

「そもそも人間だから正しくない。ヨブに非があるからこれらのことが起こったのだ」

ということです。因果応報の擁護です。しかし、ヨブ以上に苦難を受けられたイエス・キリストは、正しくなかったから苦しみを受けられたわけではありません。そのようにとらえようと試みるヨブの友人たちの声に、私たちは騙されてはいけません。神の御子イエス・キリストは、女から生まれた者となられましたが清いお方でした。神を因果応報の箱の中に閉じ込めておくのは不可能なことです。ビルダデの質問の答えは、イエス・キリストの十字架の御業によって完全に覆りました。聖書は答えます。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

ヨブ記 24章

「今そうでないからといって、だれが私をまやかし者だと言えよう。だれが私のことばをたわごとにしようとするのか。」(25節)

ヨブは因果応報を絶対とするエリファズに対して反論します。

「エリファズさん、あなたは因果応報がいつも絶対だと言うけれども、この世の不条理をどう説明するのですか?嘘をつかないでください。絶対じゃないじゃないですか!」

ヨブ記が私たちに問うていることは、私たちの動機です。もし、ヨブが主張するように、因果応報がこの世において必ずしも絶対ではないとしたら、

「それでもなお、あなたは正しく生きますか?」

「自分が願っていたように扉が開かれなかったとしても、それでもなおあなたは主を信頼し、善を行い続けますか?」

ということです。そもそも、イエス・キリストの十字架は不条理の極みです。しかし、神はこの不条理の極みである十字架の上でご自身を現されました。十字架は悲劇の象徴ではなく、天国の入り口です。

ヨブ記 23章

「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」(10節)

ヨブは苦難の中で因果応報を越えた神の存在を認めます。単純な「因果応報神学」は崩壊しました。神の御業は人間が計算できるようなものではありません。ただ、ヨブは理解できないことのゆえに、知っていることを手放すことはしませんでした。

「たとえ、わたしが分からなくても、神様はわたしがどこにいるか分かっている。これは試験で、この試験もいつか修了する時が来る。そして、わたし必ず合格する。」

使徒パウロはこんなことを言いました。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)

神がどうして試練を与えるか、私たちの理解を超えています。しかし、良い働きをはじめられた方は、完成してくださいます。

ヨブ記 22章

「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。」(21節)

ヨブ記は三人の友のスピーチとヨブの応答。それぞれ三回ずつ、因果応報が絶対という観点からヨブを説得します。22章はエリファズの三度目のスピーチ。

「罰を受けているのは、あんたが正しいからだろうか。とんでもない。悪いからこそ、罰せられるのだ。あんたの罪は底なしの沼だ。」(4,5LB)

「神様に口答えするのはよしたまえ!いさぎよく仲直りしろよ。そうしたら、気が楽になるぞ。まちがっていたことを素直に認めれば、神様のいつくしみがある。」

エリファズの声は、私たちがどこからか耳にする声でもあります。

「病気になるのは、問題が起こるのは、あなたが悪いことをしたからだ。」

しかし、ヨブ記はそうとは限らないと教えます。

「それでもなお主に信頼し、善を行ないますか」

と問われているのかもしれないと。

今日は主の日。主を礼拝しましょう。

※ 今日は母の日。すべてのお母さんに感謝します。

ヨブ記 21章

「しかし、彼らは神に向かって言う。「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。」(14節)

ヨブの悩みは、信仰者の悩みでもあります。神を追い出し、神にかかわるのはまっぴらごめんだと思っているような人が、栄えているように見える時、私たちの心は穏やかでなくなります。自分の状況がヨブのように良くないのに、

「全能の神様だって?いったいだれのことだい。だいたい、なぜ神様なんかに従わなきゃならんのかね。たいしたご利益もないのに。」(15節LB)

と言う人が裕福な生活をしているのを見る時、誠実に信仰生活を送ることが空しく見えてしまうことがあります。しかし、ここにヨブ記のテーマがあります。私たちの動機の問題です。

私たちはどうして神を信じ、祈るのでしょうか?

思うようなご利益がないならば、祈らないというレベルの信仰なのでしょうか?

本物の信仰者とは何なのでしょうか?