ヨブ記 40章

「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」(2節)

ヨブの苦難の問題は、いつのまにかに神ご自身が問題だという風に変化していました。ヨブは神がなされていることに口を挟んでしまったのです。神の質問に対し、ヨブは、自分の知識がいかに限定的であったかに気づかされ、しゃべりすぎたことを恥じ、沈黙します。そんなヨブの姿に私たちは自分を重ね合わせることができると思います。全能者の神に、あたかも自分の方が賢いかのごとく、指図していることがあるのではないでしょうか?神よりも自分のほうがよく分かっているかのごとく、神を教えようとしていることがあるのではないでしょうか?ヨブの反応が、神への私たちの反応となりますように。

「私は何の値打ちもない者です。どうして答えることができましょう。口に手をあてて黙り込むだけです。私は語り過ぎました。」(4,5節LB)

ヨブ記 39章

「あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。」(1節)

この地上において、知恵は教えます。
「正しい者は健康で繁栄する。だから、正しく生きよう。」

その「知恵」自体が間違っているわけではありません。問題は、

例外がある

ということです。どんなに正しく生きていても、健康を損なうこともあれば、繁栄しないこともあります。それは、

「人間の知恵」を超えた「神の摂理」

の中にあります。神はそのことをヨブに教えるために、自然現象における創造の不思議、動物の世界における不思議を、この章で取り上げます。これらの質問は、ヨブの質問に直接は答えません。「義人がどうして苦しむのか?」という疑問は答えられません。因果応報を否定しているわけでもありません。訓練としての試練、適格者となるための試練を否定しているわけでもありません。神はただ、神の摂理の大きさに目を向けるように言います。

ヨブ記 38章

「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。」(1節)

38章から、神がヨブに直接語られています。若いエリフの話がまだ終っていない印象も受けますが、神が突然、登場します。榎本保郎師はこう言います。

「聖書には神がつむじ風の中でしばしばご自身を現されたことが記されている。考えてみると、つむじ風、すなわち暴風に出会うとき人間は自分の弱さをいやというほど知らされる。・・・人間は自然の猛威に出会うとはじめて自分の弱さ、小ささに気づく。言うならばそのときはじめて人間は本当の自分に気づくのである。そして、そのとき、人間は神の声を聞き取ることができるのである。」

震災など自然災害は、私たちにそのことを体験させます。私たちは痛いほど、人の弱さ、小ささに気づかされます。私の神学校の先生は、

「病気や死は、私たちが神ではなく、『人間である』ということを知らせるものだ」

と言っていました。
「人は人であり、神は神です。」

ヨブ記 37章

「これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。」(14節)

ヨブは三人の友人との対話の中で、自分のことでいっぱいになっていました。「因果応報」を絶対視する友人たちは、ヨブに非を認めさせようとしました。しかし、ヨブはそのことに疑問を呈し、「自分の何が悪かったのか?」と神に訴えます。しかし、そんなヨブの視点を変えるようにエリフは訴えます。

「神が嵐を起こすのは懲らしめのため、また、いつしみで人々を元気づけるためだ。」(13節LB)

神の知恵を人は理解することはできません。エリフはヨブに、人間のはかない知恵で悟りを開こうとすることをやめて、神の素晴らしい御業を考えるように勧めたのです。私たちは自分を主体として世界を考えることをやめて、神を主体として、神の御業を考える必要があります。「私」ではなく、「神が」何をしてくださったか、十字架の御業をじっと考えることが大切です。

ヨブ記 36章

「見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。」(26節)

「義人がどうして苦しむのか」

というテーマに関して、エリフは新しい視点を提供します。

「神は悩んでいる者を救い出す。人は苦しむと、神のことばを聞くようになる。」(15節LB)

人は問題にぶつからないと神に耳を傾けない傾向があります。もっとも、

「心で神を敬わない者は、怒りをたくわえ、神が彼らを縛るとき、彼らは助けを求めて叫ばない。」(13節)

とも言います。苦難は、神に叫ぶためにあるというのがエリフの主張です。神は私たちの苦難を用いて、私たちを訓練すると。エリフは

「神はあまりにも大きいので、神を知る手がかりさえつかめない。」(LB)

と言います。神を人間理性の箱の中に収めることなどできません。キリストにあって、神を神として認める必要があります。

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

ヨブ記 35章

「しかも、あなたは神を見ることができないと言っている。訴えは神の前にある。あなたは神を待て。」(14節)

この世の不条理に対して、神の不在を哲学者は主張して来ました。人々は抑圧されて叫び声を上げてきました。エリフは言います。

「神にこう問いかけたところで、神は、抑圧する者にすぐさま報復してくれるわけではない。」(12節LB)

しかし、エリフは哲学者たちと違い、ここでは終わりません。

「かといって、神がこのような叫びに耳をふさいでいると思うのは間違いだ。神は事の成り行きを見ていないと考えるのは、いっそう大きな間違いだ。神を待ち望みさえすれば、正しいさばきをしてくださる。神が怒ってすぐ罰しないからといって、大声を上げて神にかみついてはいけない。」(13-15節LB)

私たちは神ではありませんし、神になることも絶対にありません。神は善にして善を行われるお方です。私たちはあきらめずに神を待ち望む姿勢が必要です。神は生きておられます。

ヨブ記 34章

「神は決して悪を行なわない。全能者は公義を曲げない。」(12節)

エリフも三人の友人たちと似たようなことを言っているように感じますが、少し違うところがあります。エリフが問題にしているのは、「因果応報」という法則のことではなくて、ヨブが神よりも自分を義としているという問題です。問題の中にあっても、私たちが見失ってはいけないことは、それでもなお神は悪を行なわないお方であるということです。私たちが理解できない状態でも、神は公義を曲げない方であり、最善をなされるお方であるということを捨ててはいけないのです。知らないこと、理解できないことのゆえに、知っていることを捨てるべきではありません。分からないときほど、分かることに焦点を置くべきです。

「神が絶対に悪を行わず、正義を曲げないということほど確かなことがあるだろうか。」(LB)

「神が光の中であなたに語られたことを闇の中で疑ってはならない」(ニッキー・ガンベル)

ヨブ記 33章

「神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。」(14節)

簡単に言うと、神の方法は私たち人間には分からないということです。イザヤ書でも、神がはっきりとおっしゃっています。

「わたしの計画はあなたがたの計画と違い、わたしの思いはあなたがたの思いと違う。天が地より高いように、わたしの道はあなたがたの道より高く、わたしの思いはあなたがたの思いより高い。」(55:8,9LB)

ヨブは、「因果応報」という発想から解放される必要がありました。エリフは、前の三人とは違って、痛みにも意味があるかもしれないことをヨブに伝えます。苦しみがもたらすものとして、26節で彼はこう言います。

「彼が祈ると、神はすぐさま答え、喜んで彼を受け入れ、彼を元の働き場に戻す。」(LB)

「なぜ?」と答えが得られない質問を繰り返すのではなく、「神に祈るべきだ」と彼は言います。

ヨブ記 32章

「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。」(8節)

今日の箇所で、突然、エリフという人物が登場します。彼はここまで、名前も存在も出てきません。この後も出てきません。ですから、エリフの発言をどう理解するか様々な見解があります。しかし、ここにヨブ記のもう一つのテーマがあります。それは、

「神は神であり、人は人である」

ということです。「この世の知恵」と「神の知恵」には、確かに違いがあります。人は、そもそも「全能者の息」によって「生きた者」(創世記2:7)となりました。ですから人は「全能者の息」によって「理解」が与えられます。新約聖書の中で、この「息」と訳された言葉と同じ言葉が使徒の働き2:2で、「風」として出てきます。ペンテコステの日、祈っていた一二〇名の兄弟姉妹の上に聖霊が臨まれました。その時、まさに、「全能者の息」によって、人々は理解する力も与えられました。

ヨブ記 31章

「だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。」(35節)

31章は、ヨブのフラストレーションを感じ取ることができます。

「もし・・・」

と、7つの状態を提示し、それらに何かひっかかる所があるなら、因果応報は成立するから納得できると言います。

「私の言い分を聞き、私の立場を理解してくれる者はいないのか。だれが何と言おうと、わしは正しい。もし、間違っていたら、全能者がそれを指摘すればよい。」(LB)

ヨブは因果応報の論理から言えば、不当にひどい目にあっていると主張します。

聖書が私たちに教えていることは、因果応報の中に神を納めてはいけないということです。私たちが理解できることは限られていますし、神は因果応報の法則に縛られるお方ではないからです。ですから、因果応報を土台にして生きていく生き方は、もろい生き方になってしまいます。