詩篇 4篇

「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」(7節)

6節にこう記されています。(メッセージ訳)

「どうして、みんな『もっと』ということに飢えているのか?『もっと、もっと』と彼らは言う。」

人間の物欲というものは果てしなく、永遠に満足することはありません。あれさえあれば、これさえあればと思っても、結局は、それを手にしても、また、別のものが欲しくなります。詩人は言います。

「わたしには『十分よりもっと』の神がおられる。」

人の本当の満足は、神との関係の中にあります。間違った場所に喜びを求めているということはないでしょうか?神の臨在の中の喜びは、物質的な繁栄よりも大きな喜びをもたらします。
今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 3篇

「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(3節)

詩人が感じたように、時として私たちは右も左も敵ばかりのように感じてしまう時があります。神を信じて何になるのかと嘲られてしまう時、私たちの頭はうな垂れてしまいます。しかし、神は私たちのため息を聞いておられます。私たちの涙を数えておられます。神は私たちの頭を高く持ち上げてくださるお方です。神は神の時に、最善の時に、すべてを美しくされます。なぜなら、

「本物の救いは神から来ます。」(8節MSG)

ですから、聖書は私たちに命じます。

「地上のことをあれこれ気に病まず、天上のことで心を満たされていなさい。」(コロサイ3:2LB)

「天上のこと」とは、死後の世界と言うよりも、「神の国」、神の統治を意識するということです。神のみこころで心を満たすということです。なぜなら、最終的に、神のみこころがなされるからです。

詩篇 2篇

「天の御座に着いておられる方は笑う。」(4節)

神にとってみれば、人間が限られた能力でやっていることは、おかしなことだと思います。ある人が、壁にこう書きました。

「神は死んだ。ニーチェ」

次の日、別の人が、壁にこう書き加えていました。

「ニーチェは死んだ。神」

ボルテールという哲学者は、二〇世紀になる前に、聖書はこんな本もあったと博物館入りすると言いました。私たちは今、二一世紀に生きていますが、聖書は、博物館入りするどころか、今も、世界のベストセラーであり、逆に、ボルテールという人は、専門家以外あまり知られていません。さらに、彼の家は今、聖書協会の事務所になっているそうです。私たちの人生も、これと似ているところがあると思います。いろいろ、自分のない知恵を尽くして、がんばるのですが…。一番、いい方法は、神に委ねて、膝をかがめて祈ることです。天に座すお方を認めるということが大事なことです。

詩篇 1篇

「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(3節)

1節を浅野順一師はこのように訳しています。

「幸いなるかな、悪人の計りごとに歩まず、罪びとの道に立ちどまらず、また嘲る者の座に坐らぬ者。」

ちょうど山上の説教で、イエス様が八つの「幸いなるかな」から始められたように、この詩は始まります。悪人、罪人についての説明はありませんが、「嘲る者」は神のことばを嘲るということだと思われます。なぜなら、正しい者は、神のことばを喜びとしているからです。正しい者は、「水路のそばに植わった木」にたとえられていますが、それは、周囲は枯れ果てた荒野という想定だと思われます。川が流れているために、その木は夏も冬も枯れることなく、いつも青々と茂っているのです。浅野師はこうまとめています。

「義人の願うところは皆成就し、そのなすところは成功するというのである。」

コロサイ 4章

「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。」(2,3節)

使徒パウロは祈りの力を知っていました。祈りなくして、福音を伝える機会が与えられるとは考えていませんでした。神は、私たちの小さな祈りを用いて、大いなる御業を行われるお方であることを知っていたのです。神は私たちの祈りを聞かなければならないわけではありませんが、聞かれるお方です。ですから、パウロは訴えます。

「祈りをやめてはいけません。感謝をもって、熱心に祈り続けなさい。」(2節LB)

聖書は言います。

「神のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださることを、信じなければなりません。」(へブル11:6LB)

コロサイ 3章

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」(1,2節)

私たちはキリストにある視点、キリストにある価値観、世界観に生きるよう勧められています。LBでは2節をこのように訳しています。

「地上のことをあれこれ気に病まず、天上のことで心を満たされていなさい。」

「天上のことで心を満たされる」という意味は、世捨て人になることではありません。神の国、神のみこころ、聖書の価値観で心を満たすことです。ですから、15節にこう記されています。

「キリストにある平和が、いつもあなたがたの心と生活を満たすようにしなさい。そうすることが、キリストの体の一部とされたあなたがたの責任であり、特権でもあるからです。また、いつも感謝していなさい。」(LB)

コロサイ 2章

「かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」(19節)

当時の教会の問題の一つは、キリストとの関係、そして、キリストのからだである教会との関係を軽視する人の存在でした。今日の箇所をLBでは、こう訳しています。

「彼らはキリストにつながっていません。しかし、キリストの体を構成する私たちは、キリストをかしらとして結びついています。私たちは間接と筋肉によって互いにしっかり結び合わされ、神から養分と力とをいただいて成長するのです。」

メッセージ訳では、後半部分をこう訳しています。

「キリストはかしらで私たちはからだです。私たちは、神様が養ってくださることによってのみ健全に成長できます。」

かしらであるキリストとの関係、キリストのからだである教会との関係の両方が大事です。

コロサイ 1章

「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(16節)

ここには、「御子」、すなわち、イエス・キリストの前に、三つの前置詞が出てきています。「あって」、「よって」、「ために」です。すべてのものは、イエス・キリストに「あって」造られ、キリストに「よって」、そして、キリストの「ために」存在しています。ですから、キリストご自身を求めて生きていかなければ、人は人生の意味を見失います。さらに、聖書は言います。

「キリストは、ご自分に属する人々からなる体、すなわち教会のかしらです。」(18節LB)

教会もまた、キリストに「あって」造られ、キリストに「よって」、キリストの「ために」存在しています。

今日は、主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヨブ記 42章

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(5,6節)

ヨブは、単なる耳学問ではなく、神を現実として体験しました。ヨブの苦難に対する神からの答えはありませんでしたが、ヨブは満足しました。知性偏重主義の社会に聖書は挑戦します。人は知性以上の存在であり、神を体験することが大切であると。ここで「悔い改め」と訳された言語は、一般的に「悔い改め」と訳す言葉とは違う言葉が使われています。罪を悔い改めるという意味ではないので、岩波訳では、「考え直します」と訳しています。ヨブは罪人だったという意味ではありません。「義人が苦しむことがある」ということがヨブ記のテーマだからです。しかし、その苦難は祝福のはじまりでもありました。聖書は言います。

「ヨブの晩年は、初めよりずっと祝福されました。」(12節LB)

ヨブ記 41章

「あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪繩でその舌を押えつけることができるか。」(1節)

レビヤタンが何であるか、今もよく分かっていません。学者によっては竜(ドラゴン)だと主張します。恐竜と考える学者もいます。分かっていることは、神以外にはコントロールできない海の怪物であるということです。二一世紀に入り、どんなに衛星写真が発達しても、人類は地球上の生命体のすべてを把握しているわけではありません。未知なる世界は今も存在していることを忘れてはいけないと思います。人類は神ではありませんし、永遠に神になることはできません。知らないことを知り、謙遜になることが大切です。ここでのレビヤタンは、破壊的力の象徴でもあると考えられますが、それさえも神の管理下にあると言う事実を、心にとめることも大事だと思います。「王の王、主の主なる偉大なる神様、あなたの力と主権を認めます。あなたをあがめ、たたえます。」