詩篇 24篇

「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」(9節)

ダビデは、神の臨在を象徴する契約の箱が、エルサレム神殿に入ってくることを意識して、この詩を書いたと思われます。しかし、これはまた預言的な意味を含んでいると思われます。イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城されたことを、預言していたのだと思われます。さらに、聖書の一番最後のところで、イエス・キリストはこう言われました。

「しかり。わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)

イエス・キリストは再び、この地に来られると約束されました。メッセージという訳では今日の箇所をこう訳しています。

「目を覚ませ、寝ぼけている町よ。目を覚ませ、寝ぼけている人々よ。栄光の王が入ってくる準備は整った。」

その日は遠くありません。

詩篇 23篇

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(1節)

誰が自分の人生の羊飼いであるかはとても重要なことです。キリストは言いました。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)

私たちが、日々の生活の中で優先的に耳を傾け、その後についていっている存在が私たちの人生の羊飼いです。それは、人とは限りません。ある種の哲学や思想、また、富や名誉などの可能性もあると思います。しかし、キリストは言いました。

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネ10:14新共同訳)

イエス・キリストが自分の羊飼いであるならば、乏しいことはありません。なぜなら、キリストは私たちのことをすべてご存知な上で導いてくださっているからです。

詩篇 22篇

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」(1節)

詩人の体験からも神の不在を感じることは、今も昔も変わらない一般的なことであることを私たちは学びます。信じていても見捨てられたように感じることがあります。賛美を捧げていても疑いをもってしまうことがあります。聖書を読んでいても、暗闇を感じてしまうことがあります。実際、イエス・キリストが十字架における救いの御業を成し遂げる時に、この詩人と同じ祈りを捧げました。そして、キリストがこの箇所を口にされたことを通して、私たちは今、不在と感じるその所に、神は確かに存在され、神の御業が確かに成し遂げられていることを知ることができます。逆境は、神が私たちを見捨てられたということではなく、このことを通して神の栄光が現わされるということです。

詩篇 21篇

「主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。」(13節)

私たちの信じている神は、力ある神です。死の力を打ち破るほどの力あるお方です。LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「ああ主よ、この賛美をお受けください。御力を賛美しているのですから。私たちは主の力強いみわざをたたえて、賛美の歌を歌いましょう。」

私たちは神の力強いみわざを歌うように促されています。神の御力をたたえて、賛美の歌を歌うことは、聖書が教えていることです。
さらに、7節にこうあります。

「王は主により頼んでいるので、つまずいたり倒れたりすることは絶対にありません。あらゆる神々にまさる神の変わらない愛に、頼りきっているからです。」(LB)

永遠に変わることがない、神の愛を信頼し、力ある主により頼んでいくことができますように。

詩篇 20篇

「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」(7節)

この箇所の「誇る」とは、

「…に確信を持つ、信頼して任せる」

という意味です。神の御名を誇るとは、神の御名に確信を持つということです。神の御名は、神のご性質を示します。神の御名を知るとは、神を知ることです。神の御名を誇るとは、神を、

「いと高き神、ご覧になる神、全能の神、義なる主、勝利の主、ここにおられる主、癒し主、羊飼いなる主、備え主、聖め主、万軍の主、平和の主」

と、確信することです。困難な時、どうして私たちは神よりも人からの助けを期待し、思うような助けを得れないと苛立つのでしょうか。祈って神の勧めを待ち望むよりも、人の助言に走ってしまうのでしょうか。神がどういうお方であるか、確信する必要があるのではないでしょうか。

「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。」(箴言18:10)

詩篇 19篇

「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」(7節)

聖書のみことばとは何かがここで並べられています。

 

聖書のみことばは第一に

「完全」

です。

聖書以外の場所に人は神のことばを求めるべきではありません。

 

第二に、聖書のみことばは

「たましいを生き返らせ」

ます。

聖書のみことばは、人生を立て直す力があります。

 

第三に、聖書のみことばは

「確か」

です。

確実で、信頼できます。

 

第四に、聖書のみことばは私たちを

「賢く」

します。

箴言にこういう箇所があります。「では、どうしたら賢くなれるのでしょう。まず主を信じ、主を大切にすることです。」(箴言1:7LB)

聖書のみことばには力があります。なぜならば、今生きておられる神のみことばだからです。主を信じ、主を大切にする人は、主のことばである聖書のみことばに耳を傾けます。

詩篇 18篇

「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた」(6節)

この箇所は、ダビデが晩年、自分の生涯を回顧して記した詩篇だと言われています。彼の人生は波乱万丈でした。サウル王に命を狙われたり、息子のアブサロムに命を狙われたり。また、ダビデが洞窟の中に隠れていた時に集まった人々は、不満を抱いている人たちでした。しかし、そんな中で彼は人生の秘訣を見出しました。それは、主を呼び求めること、祈ることでした。壁にぶつかった時、クリスチャンは祈ります。祈ることができることは幸せです。苦しみがなくても祈ることは大事ですが、人は追い込まれないと祈れないところがあるのもまた事実だと思います。祈りに追い込まれることは神が本当に生きておられるということを体験するチャンスでもあります。今日は主の日。共に礼拝しましょう。

※ 本日のSSCは、東北や熊本の被災地で活動しているオペレーション・ブレッシング・ジャパン代表トムソン先生がメッセージされます。

詩篇 17篇

「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」(15節)

LBでこう訳しています。

「しかし、私の関心は富にはなく、私が神を見ているかどうか、また、神と正しい関係にあるかどうかにあります。私は天で目覚めるとき、この上ない満足感にひたるでしょう。神の御顔をじかに見るからです。」

私たちのこの世での人生は、この地上の利得に心を奪われるか、それとも、神を喜びとして生きていくかで、大きく変わっていきます。神を自分の喜びとして生きていくならば、この世においても、もちろん楽しみを与えてくれるだけでなく、やがて、天の御国に着くとき、「この上ない満足感にひた」ります。ジョン・ストット師はこう言います。

「地上には大切な義務がありますが、自分が誰であるか、どこに向かっているのかを忘れるほど、そんなものに心を奪われてはいけません。」

信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離すことがありませんように。

※ 明日のSSCは、東北や熊本の被災地で活動しているオペレーション・ブレッシング・ジャパン代表トムソン先生がメッセージされます。

詩篇 16篇

「私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。」(7節)

助言を求められた時、まことの助言者である主に求めるように励ますならば、神が語ってくださるという世界を体験できます。加藤常昭師はこんなことを言っています。

「今の若い人たちは聖書を読まないとか、聖書は難しいとか、古い時代の文書であるとか、そう言われているけれども、そんなことはないんだ。今の人たちがなぜ聖書から遠ざかってしまったかというと、今の若者たちに責任があるのではなくて、我々神学者に責任がある。我々神学者がどうしているかというと、『あなたがた素人は、我々専門家が説明をしないと聖書がわからない人たちだ』と言っている。だから、聖書のある箇所を読んでも、そういう考えを植え付けられている人たちは、これについて専門家が語っている文章を読まないとわからない。」

牧師でなくても、専門的な教育を受けていなくても、日々、聖書を開くならば、神は必ず、私たちに語ってくださいます。

詩篇 15篇

「このように行なう人は、決してゆるがされない。」(5節)

詩人は

「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。」(1節)

と、神に奉仕する者の資格を挙げます。

「それは、責められるところのない生活を送る、誠実そのものの人です。他の人を中傷せず、うわさ話に耳を貸さず、隣人を傷つけたりしない人です。」(2,3節LB)

リック・ウォーレン師はこう言います。

「もし本気で自分の人生を変えたいと願うなら、聖書に向かわなければなりません。聖書を読み、学び、暗記し、黙想し、適用する必要があります。」

ローマ12:2にこうあります。

「この世の型にはまり込んでしまわないように気をつけなさい。むしろ、自分の心の態度がすべて変わるように、自分自身を神に造り変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころが良いもので、受け入れられ、完全であることを、あなた自身が身をもって証明するようになるのです。」(フィリップス訳)