詩篇 55篇

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(22節)

この詩は、ダビデが、彼の息子、アブシャロムに反乱を起こされたときに書いたと言われます。彼の側近であったアヒトフェルが、この時、彼に敵対しました。ダビデにとって、息子だけでなく、側近の反乱は、精神的にもショックだったと思われます。しかし、そんな状況の中で、彼は立ち止まり、言います。

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。」

神に重荷をおゆだねする時、平安が来ます。ですから、預言者イザヤもこう言います。

「主を信頼し、いつも主のことに思いをはせる者を、主は何の心配もないように守ってくださいます。どんなときでも、神である主に信頼しなさい。あなたの永遠の力は主のうちにあるからです。」(イザヤ26:3,4LB)

詩篇 54篇

「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」(4節)

どんな時でも、どんな状況でも、神様が自分を助ける方であることを告白することは大切なことです。「まことに」と訳された言葉は、一般的に「見よ」と訳される言葉です。聖書は、問題に目を向けるのではなく、私たちを助け、支えてくださる神様を見るように訴えます。神様に目を向けることができるのならば、最後には、詩人と共に賛美することができます。

「わたしは今、神を礼拝する準備ができています。とても準備ができています。神様、ありがとう。あなたはとても良いお方です。」(6節MSG)

神様に目を向ける時、私たちの嘆きは確信に変わります。私たちは孤軍奮闘しているわけではありません。神様を見上げるならば、神様が私たちと共におられ、私たちを助け、支えてくださっていることを知ることができます。

詩篇 53篇

「愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。」(1節)

聖書は一部だけでなく、全体の文脈を通して読む必要があります。今日の箇所に「神はいない」という言葉が出てきますが、前後関係を見れば分かるように、それは、愚かな者が言うことです。実際、「無神論者」になるには、相当な信仰が必要です。ゴミの山からロボットが突然生まれてくることを信じられるほどの信仰が必要です。また、神を否定したからといって、問題が解決するわけではありません。多くの場合、「神を信じない」という人の神観は、聖書の神観とはまったく異なります。「あなたが信じない「神」とはどういう「神」ですか」と尋ねたなら、私たちも信じられない「神」を答えることでしょう。聖書の神は、この天地万物を創造し、統べ治められ、私たちを愛される三位一体なる神です。今日は主の日。この神に礼拝を捧げましょう。

詩篇 52篇

「なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。」(1節)

私たちはこの世の悪に心を痛めます。悪が勝ち誇っているのを見ると、真面目に生きることが馬鹿らしく思えてしまいます。しかし、神の恵み、真実、あわれみは、いつもあるということに気づく必要があります。この詩の表題はこのようになっています。「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来た。」と言ったときに」。ダビデは、サウル王から命を狙われていました。アヒメレクの所に逃げたことをドエグが密告しました。ダビデは「安全な場所はどこにもない、誰も信頼することができない」という気持ちになっていたと思います。しかしダビデは歌います。「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。」「神の恵み」があるように思えないかもしれません。それでもなお「神の恵みは、いつも、あるのだ」と信仰宣言をしていくことが大切です。

詩篇 51篇

「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」(12節)

「喜び」はクリスチャン生活のしるしの一つです。「ハッピー」(happy)とは違います。出来事(happening)に左右されるものではないからです。「喜び」は神との関係がもたらせるものです。もっともダビデ王は罪を犯した時、救いの喜びを失いました。罪は神との関係を壊すからです。罪のゆえにダビデ王は神の臨在を感じることができなくなりました。罪は喜びを奪います。しかし、希望はあります。

「もし、自らの罪を神に告白するなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9LB)

罪を悔い改め、神に立ち返る時、神は救いの喜びを回復してくださいます。「喜んで仕える霊」とは、自発的に神に仕える思いです。神は私たちを喜びで満たし、神の働きに自発的に加わって欲しいと願われています。

詩篇 50篇

「感謝のいけにえを神にささげよ。」(14節)

神は感謝のいけにえを求めています。

「わたしが求めているのは、真心からの感謝」(LB)

と神は言われます。一八九〇年、アメリカのミシガン湖で、遊覧船が沈没する事故がありました。当時、大学の水泳選手だったスペンサーは、全力で十七人のいのちを救い出しました。長い年月が過ぎたある日、その出来事をトーレー博士が伝道集会でメッセージしました。すると、そこに老人になったスペンサーがいました。説教の後、トーレー博士がスペンサーに尋ねました。「当時、いのちを救われた十七人のうち、何人が感謝を表しましたか。」スペンサーは、ほほ笑みながら答えました。「一人です。」自分のいのちを救ってくれた人に感謝するのは当然なことです。しかし、残念なことに、感謝を忘れて生きている人たちの方が多いのが現実です。神が求めている人は、奇蹟の主人公ではなく、感謝の心をもっている人です。

詩篇 49篇

「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。」(15節)

この世の人生が終わる時、イエス・キリストの十字架の贖いの御業のゆえに、神は私を受け入れてくださいます。

「たましいは余りにも高価なので、この世の富をいくら積んでも買い戻せません。」(8節LB)

しかし、キリストは私たちの身代わりとなって十字架にかかられ「完済した!」とおっしゃられました。ですから、キリストを信じるだけで神が受け入れてくださいます。その日、神は

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

と言ってくださいます。誰かから受け入れられようと努力して一生が終るという人生の選択もあります。キリストのゆえに神に受け入れていただいていることを認識して、感謝をもって生きていくこともできます。

詩篇 48篇

「神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。」(9節)

神の宮の中で神の恵みを思い巡らすことを、神は私たちにチャレンジしています。私たちは日常の生活の中で、不安や恐れを思い巡らすことはよくあると思います。しかし、神の恵みを思い巡らすことはなかなかないのではないでしょうか。「神の宮」とは、神がおられる場所です。もちろん、教会を意味すると思いますし、日々の祈りの場所など、いろいろ適用もできると思います。大事なことは神の恵みを数えることです。宗教改革の指導者の一人カルヴァンは、歩く総合病院のような人だったそうです。二五種類ほどの病気をもっていたので、体が痛くて夜も眠れなかったそうです。眠れないので祈るしかなく、祈るとインスピレーションをいただき、深い霊性の本を書くことができたと言います。苦痛の中にあっても、神の恵みを思い巡らす時、神の恩寵の世界が必ず開かれます。

詩篇 47篇

「まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。」(7節)

イスラエルの神は全地の王です。王が意味することは、次節にあるように、

「神は国々を統べ治めておられる。」

ということです。人々は自己中心的な統治者たちに疲れ果てていました。人々の願いは、神(ヤハウェ)ご自身が統べ治めること、王となられることでした。イザヤ書にこうあります。

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。」(イザヤ52:7)

イエス・キリストが十字架にかかられた時、この預言が成就しました。神は神の御子が十字架にかかり死ぬことを通して王となりました。復活は罪と死の支配が打ち破られたことを証明しました。神を王としてほめ歌を歌うことは、神の御国をこの地に現す大切な方法です。

詩篇 46篇

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(10節)

「やめよ」と訳された単語を、口語訳は

「静まって」、

新共同訳は

「力を捨てよ」

と訳しました。

「戦うのをやめなさい」(TEV)

と訳しているものもあります。いずれにせよ、私たちは日常を離れて、神を見上げる時間が必要です。いろいろな不安をやめる時間が必要です。日常のノイズから離れて静まる時間が必要です。一生懸命がんばっていることをストップする時間が必要です。そして、神が神であることを認める時間が必要です。自分を中心にして世界が回っているのではないことを認める時間が必要です。天地万物を造られ、支配されている神が生きていることを認める時間が必要です。今日は主の日。日々、静まって神を認めることも大切ですが、毎週、共に集まって、神を神として認め、あがめ、礼拝を捧げる時間はとても大切です。人は神を礼拝するために造られたからです。