詩篇 65篇

「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。」(4節)

使徒パウロは言いました。

「キリストのうちにある無限の富が外国人にも与えられるという計画を伝える者として、こんな私が選ばれたのです。」(エペソ3:8LB)

私たちはみな、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに神に近寄せられました。私たちは神の家の良いもので満ち足りるように召されています。ですから神が私たちに与えようとしている無限の富、様々な富を受け取る必要があります。神の無限の富は、祈りを通して与えられます。祈り求める中で、神の無限の富の良いもので、満ち足りることを体験します。

「私たちはこのキリストと共にあり、キリストを信じる信仰によって、確信をもって大胆に神の前に出ることができます。」(エペソ3:12LB)

詩篇 64篇

「彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦い言葉の矢をはなっています。」(3節)

私たちを傷つけるものは目に見える凶器だけではありません。苦い言葉、「情け容赦ないことば」(LB)は、わたしたちを傷つけ、落ち込ませ、絶望の淵へと追いやります。思いやりのない言葉は、私たちを苦しめ、立ち上がることを妨げます。しかし、人を生かすのもまた言葉です。生きたことば、命と愛に満ちた言葉は私たちを絶えず前向きな気持ちにし、励ましてくれます。ですから聖書は言います。

「悪意のこもったことばを口にしてはいけません。相手の益となり、助けとなること、また、祝福を与えることだけを話しなさい。」(エペソ4:29LB)

言葉を発する時、自分の感情や思いをぶつけるのではなく、その言葉が本当に相手の益となるかということを一呼吸置いて考えることも大切です。信仰的、肯定的、前向きな言葉を用いることができますように。

詩篇 63篇

「私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。」(2節)

教会に集い、天を見上げ、イエス様に求めます。

「私は、あなたの力と栄光を見るために、今日、教会に来ました。あなたの臨在に飢え渇いています。」

「教会は、キリストの体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリストの霊が満ちあふれるところです。」(エペソ1:23LB)

神はご自身の力と栄光を現わす場所を探しておられます。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9)

私たちが賛美と礼拝を通して、神と心を一つにしていく時に、神は栄光と御力を現わしてくださいます。それは1節にありますように、

「私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」

というほどの神の臨在に対する飢え渇きから始まります。

詩篇 62篇

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」(1節)

「私の救いは神から来る。」という箇所を、LBでは、

「救うことができるのは神だけですから。」

と訳しています。私たちは黙って神を待ち望むためには、「救いは神から来る」ということ、「救うことができるのは神だけ」ということを受け止める必要があります。パウロは自分の無力さを痛いほど思い知らされた時に、

「救い出すことができるのは、神様だけです。」(Ⅱコリント1:9LB)

ということを悟りました。パウロは黙ってというよりも、黙らされて、神を待ち望み、「救うことができるのは神様だけ」ということを身をもって体験させられました。新共同訳では、

「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」

と訳しています。リック・ウォーレン師がこんなことを言っています。

「神は自ら助くる者を助けない。神は神を頼る者を助ける。」

詩篇 61篇

「私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです」(4節)

「幕屋」が意味していることは、神の住まいです。私たちはやがて、天の御国で神と共に住みます。しかし、それはこれから後の話というだけではありません。イエス・キリストは私たちに「御国が来ますように」と祈りなさいとおっしゃられました。これは神の住まいが天にあるように、この地にもあるように祈りなさいという意味です。イエス・キリストの誕生は、神の幕屋がイエス・キリストを通して人類に与えられたことを意味します。そしてイエス・キリストの十字架と復活は、この幕屋を地上にもたらしました。具体的には、詩篇22:3にこう書いてあります。

「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」

賛美と礼拝は、神のリビング(Living・生きておられる)・ルームです。私たちが、賛美と礼拝を神に捧げる、そのただ中に、神はおられます。

詩篇 60篇

「神によって、私たちは力ある働きをします。」(12節)

「神によって」は「神の中で」(in God)とも訳せます。自分がどの位置にいるかが、私たちの人生に影響を与えます。ダビデは、自分を神の中に置くことによってベストを尽くすことができました。自分を神の中に置くことを意識することは大切なことだと思います。私たちは

「神の中に生き、動き、また存在している」(使徒17:28)

のです。このことを意識して生きていくかどうかが、私たちが力強く生きていくために重要です。人にはできないことも神にはできます。神の中に生きているならば、私たちの能力を超えたすばらしいことを期待することができます。それは、自己満足の世界ではなく、神の御国をこの世界に体現していくことです。イエス・キリストの十字架と復活を通して、神の御国がこの世界にはじまっていることを体現する人生です。今日は主の日。共にこの世界で主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 59篇

「しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。神は私のとりで、私の恵みの神であられます。」(16,17節)

私たちが逆境の中にいるときの一番の処方箋は、神を賛美することです。表題を見ますと、

「サウル王はダビデ殺害を謀り、兵を派遣した。兵に家を包囲された時のダビデの詩」(LB)

とあります。私たちも、四方八方を問題に囲まれたように感じる時、ダビデのように朝ごとに神を賛美することが大切です。私たちが逃げてよい逃げ場は、賛美を住まいとしておられる神だけです。神のもとへ身を避けるなら、ダビデと同じように歌うようになります。

「ああ、私の力そのものの神よ。あなたをたたえて歌います。あなたは、安全な高い塔。」(17節LB)

詩篇 58篇

「力ある者よ。ほんとうに、お前たちは義を語り、人の子らを公正に裁くのか」(1節)

テレビや新聞で報道される国内外の事柄から家庭や学校など身近な所に至る出来事まで、私たちは自分の価値観で物事を判断し、裁く傾向にあると思います。多くの場合、自分は正しいと思い、正義感に燃えてジャッジをするのですが、果たしてそれは本当に正しい判断なのでしょうか。自分の育ってきた環境だけがすべてではなく、視点も様々です。私たちは何かを判断する場合、もっと謙遜になるべきではないでしょうか。私たちは神ではありませんから当然不完全であり、間違いも犯します。そんな欠けのある私たち人間が、自分の判断、ジャッジは絶対に正しい!と思うことに関して聖書は警告を与えているのです。五八篇の最後はこう締めくくられています。

「まことに、さばく神が、地におられる。」

詩篇 57篇

「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。」(2節)

誰に呼び求めるかはとても大事なことです。私たちが呼び求めるお方は、いと高き方、神です。力ある偉大なる創造主なるお方です。「光あれ」と言われ、光を創造されたお方です。このお方はまた、キリストを信じる私たちに関わってくださり、私たちのためにすべてを成し遂げてくださるお方です。聖書は言います。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(ピリピ1:6新共同訳)

つまり神は、私たちに成し遂げるために必要なすべても備えてくださっているということです。ですから、この神を信頼して、呼び求めていきましょう。

「私は、天におられる神、奇跡を行ってくださる神に叫びます。」(LB)

詩篇 56篇

「神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」(4節)

「みことばを、ほめたたえます。」というのは、聖書が礼拝の対象という意味ではなく、聖書のみことば、特に神の約束のゆえに、神をほめたたえるという意味です。私たちの信仰の土台は、聖書のみことば、神の約束です。感情ではなく、聖書のみことばが何と言っているかを優先させます。「肉なる者」という日本語は一般的ではありませんが、人のはかなさを象徴しています。預言者イザヤは、こう表現しています。

「すべての人(肉なる者)は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:6-8)

ダビデは大変な状況、大変な問題に直面してきましたが、この視点をもっていたので、乗り越えることができたことを心に留めたいと思います。