イザヤ 29章

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。」(16節)

今日の箇所は、私たちが創造主なる神に対してどのように考えるべきかを明確にしてくれる箇所だと思います。神は私たちを造られた神であり、私たちは神に造られた被造物です。神は神であり、人は人です。人が神になることはありません。しかし、人は倒錯を起こして、創造主なる神に対して「神は何も分っていない」などと言っていることがあるのではないでしょうか。創造主なる神はすべてをご存じであり、しかも、私たちを愛しておられます。私たちは神の指紋がついた、神の作品であることを忘れてはいけません。私たちは有限な人間であり、無限の神と対等の存在ではありません。神を神として認めることができますように。

イザヤ 28章

「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(16節)

今日の箇所は、新約聖書で引用されています。

「『見よ。わたしは一つの石(キリスト)を(教会の)尊い土台石とするために選び、遣わした。彼に信頼する者は、決して失望しない。』キリストは、信じる者にとっては何よりも尊い方ですが、キリストを拒む者にとっては、『つまずきの石、妨げの岩』となりました。・・・彼らのつまずきの原因は、神のことばに耳を傾けず、従おうとしないことです」(1ペテロ2:6-8LB)

「試みを経た石」とは、何度も試みを受けた試験済みの石という意味で、信頼できるということです。イエス・キリストが信頼できる石であるということは、歴史を通じて、証明されてきたことでもあります。

イザヤ 27章

「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(6節)

100年ほど前、この預言は夢のような話でした。イスラエルの国はまさに荒野であり、植物とは無縁な土地だったのです。ですから、ありえないという比喩としか理解することはできませんでした。しかし、1900年代のはじめ、ユダヤ人たちはアラブ人たちから荒れた土地を買い、その土地に植物が育つように改良しました。今、イスラエルに行くならば農地を見ることができます。そして、世界でも五本の指に入る果物輸出国となっています。(日本でも、ヤッホ・ルビーと呼ばれるイスラエル産の果物が輸入されています。)神は2700年ほど前に、すでにこのことが起こることを知っておられました。

「やがてイスラエルが根を張り、つぼみをつけ、花を咲かせ、世界をその実で満たす時が来る。」(LB)

神にできないことはありません。神の約束は必ず成し遂げられます。

イザヤ 26章

「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。」(4節)

信仰とは一時的なものではなく、人生を通して持ち続ける継続的なものです。ですからLBではこのように訳しています。

「どんな時でも、神である主に信頼しなさい。あなたの永遠の力は主のうちにあるからです。」

3節にはこのように記されています。

「志の堅固なものを、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」

「全き平安」と訳された言葉の原文は「シャローム、シャローム」です。最上級の平安という意味です。「ヤハ」は「ヤハウェ」、神の名前です。どんな時でも神を信頼して生きていくならば、尽きない力、最上級の平安の中に生きることができるという約束です。このことを使徒パウロは次のように表現しています。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:15)

イザヤ 25章

「あなたは弱っている者のとりで、嵐のときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴なものたちの息は、壁に吹き付けるあらしのようだからです。」(4節)

宗教改革者マルチン・ルターは、『神はわがやぐら』という有名な讃美歌を作りました。旧約聖書には神が私たちの砦、避けどころであると何度も言います。それは多くの信仰者たちが実際に避けどころである神を体験していたからだと思います。私たちの日々の歩みの中にも嵐のように感じる出来事が起こります。叩きつけるような風に一歩も前へ進むことができないと感じることもあります。そのようなとき、自己憐憫に陥って落ち込み、嘆くこともできますが、聖霊の助けによって「神がわたしたちの砦、避けどころです!」と宣言し、前へ進むこともできます。私たちは、どこに助けを求めているでしょうか。本当の助けは、ただ、生ける神、キリストの中にあります。

イザヤ 24章

「月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」(23節)

イザヤはやがてヤハウェなる神ご自身が治めるために来られると預言しました。

「シオンの山、エルサレムで王となり」

というのは、ダビデの王国の完成を意味します。神ご自身が王となり、その民を牧される。イエス・キリストはエルサレムで十字架にかかられました。その十字架の上には、

「ユダヤ人の王」

と刻まれました。誰が想像したでしょうか。神はそのひとり子を与えることによって王となられました。子なる神イエス・キリストは、すべての人の罪のために死ぬことによって王となられました。LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「ついに天の軍勢の主はシオンの御座にのぼり、イスラエルの長老たちの見ている前で、エルサレムを中心に世を治めます。その栄光は、太陽の輝きも月のうるわしさも、色あせてしまうほどです。」

イザヤ 23章

「万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。」(9節)

ツロが滅んだ理由を聖書はこう言っています。

「天の軍勢に命令を下す主が、その思い上がりをたたきのめし、人間の偉大さなど取るに足りないことを示そうと、このようにしたのです。」(LB)

ヤコブ4:6にも、こうあります。

「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

傲慢(高ぶり)は主が忌み嫌うものだと聖書は繰り返し教えます。箴言16:18(LB)には、こうあります。

「プライドが高すぎると身を滅ぼし、高慢は失敗を招きます。」

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(Ⅰペテロ5:6)

今日は主の日。へりくだり主に礼拝を捧げましょう!

イザヤ 22章

「さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。」(15,16節)

執事シェブナとは、ヒゼキヤ王の時代に宮廷を管理していた人物です。神の怒りに対して悔い改めることをせず、宮廷の管理者と言う立場にありながらただ自分の楽しみのために日々を過ごしていた様子が記されています。そして、シェブナが危機感を持つこともなく自分のためにエルサレムの墓群のなかでも一等地に自らの墓を用意したことに対して、神は厳しく語っています。興味深いことにごく最近、シェブナのものと思われる墓が発見されました。私たちの心の中にも、時々自己中心なシェブナが存在します。他者に対して心を向けることは大切です。

イザヤ 21章

「ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」」(11,12節)

イザヤのところにエドムの人々が、アッシリヤの脅威はいつまでかと尋ねにやってきました。イザヤはエドムの人々に、本当にそのことが知りたいのなら、心からもう一度尋ねに来るようにと言いました。神は今も同じようにされることがあります。鎮痛剤程度に神を求めてきても、神はその人が心から求めに来るまで答えを待たれることがあります。聖書は言います。

「神のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださることを、信じなければなりません。」(ヘブル11:6LB)

スポルジョンは言います。

「それが好きであれ、嫌いであれ、求めることは神の国のルールです。」

熱心に祈り求めましょう。

イザヤ 20章

「人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。」(5節)

何に頼り、何に期待し、何に希望を抱くかということは、私たちの人生にはとても大きな問題です。もし、その頼みとしたものが崩れ去ってしまうなら、私たちは混乱してしまうからです。ですから、私たちは決して揺るがない、確かな方、イエス・キリストを頼みとし、イエス・キリストに希望をもつということが大切になります。聖歌の中にこういうものがあります。

「イエスこそ岩なれ 堅固なる岩なれ 他は砂地なり」(二三六番)
今年は宗教改革五百周年ですが、宗教改革のモットーは

VDMA(Verbum Domini Manet in Aeternum.)

神のみことばは永遠に変わることはありません。

イエス・キリストを頼みとするものは失望することはありません。