イザヤ 39章

「ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全だろう、と思ったからである。」(8節)

「主のことばはありがたい」の「ありがたい」という言葉の原語は、英語の「good」にあたる言葉が使われています。ですから、ヒゼキヤは「YHWH(聖書の神の名)のことばはgood(良い、すばらしい)です。」と言ったというのです。イザヤは裁きの言葉を告げたのにも関わらず、「神の言葉だから良い」と受け止めたというのです。もっとも、ヒゼキヤの動機は自己中心的にも受け止められますが、それにしても、「神の言葉だから良い」という姿勢は学ぶ必要があります。自分の耳に心地よいから良いのではなく、神のことば、聖書のことばだから良いという姿勢をもつことが大事なのだと思います。理解できなくても、神のみことばを良しとして受け止めていけますように。

イザヤ 38章

「「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。」(5節)

神は私たちの祈りを聞き、私たちの涙をご覧になるお方です。イエス様もこの地上で、涙をもって祈ったことが記されています。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

もちろん、涙を流せば聞かれるという意味ではありません。口先だけではなく、全人格的な祈りを神は望んでおられるということです。神は流暢な言葉よりも、全身全霊の祈りを待っておられるということです。

イザヤ 37章

「あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。」(23節)

アッシリヤ軍は、エルサレムに攻め入ることはできませんでした。彼らはヒゼキヤ王に言いました。

「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。」(10,11節)

しかし、ヒゼキヤ王は、アッシリヤ王の言葉よりも神を信頼することを選び、神が救い出されることを体験しました。歴史的にも、アッシリヤ帝国は、この後、滅亡の一途を辿ります。

今日は、主の日です。たとえアッシリヤ王のような言葉が聞こえてきても、私たちは神を信頼し、礼拝を捧げましょう。

イザヤ 36章

「ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。」(4節)

アッシリヤ軍がエルサレムを包囲した出来事は、聖書以外にも文献が残っています。ですから、歴史上本当に起こったことであると認められています。この時、まさにヒゼキヤたちは、何に拠り頼んでいるかが試されました。ラブ・シャケはエルサレムの人々に言いました。

「ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。」(15節)

しかし、ヒゼキヤをはじめ、エルサレムの人々は、主を信頼することを選びました。そして、彼らは生ける神の救いを体験しました。

「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブ10:39)

イザヤ 35章

「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」(5,6節)

バプテスマのヨハネは獄中でイエス様のことを聞き、弟子たちを遣わして、

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

と尋ねさせます。すると、イエス様はこう答えられます。

「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見ない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:4-6)

つまり、今日の箇所は、イエス様が来られたことによって成就しました。

イザヤ 34章

「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」(16節)

LBではこう訳しています。

「主の書を調べて、主がこれからどうするかに目を留めなさい。ただの一つも連れ合いを欠きません。その地には、つがいでないものはいません。主がそう命じ、主の御霊が、そのとおりになるようにしたからです。」

イエス様もこうおっしゃられました。

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)

ですから、聖書を調べることは大事なことです。聖書がそう語っているなら、そのようになります。たとえ、今、自分の目にはそう見えなくても、神のことばは滅びることはありません。聖霊なる神様は今も、そのとおりになるようにしておられます。

イザヤ 33章

「そこに住む者は、だれも『私は病気だ。』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」(24節)

ここで言われている「そこ」とは、「神の国」、「天の御国」のことだと思われます。私たちはこの世に生きている限り病気をします。どんなに癒されても、やはり病気をし、死に直面します。そして、病気をするたびに、自分は神ではなく、有限な人間であるということを痛いほど教えられ、謙虚にさせられます。完全な人などこの世には存在しません。しかし、神はこうおっしゃられました。

「わたしは主、あなたをいやす者である。」(出15:26)

神は私たちをいやしてくださるいやし主です。神の国はすでに来ているので、病気はいやされます。しかし、まだ完全ではありません。ですから、死の後の後、天の御国で、私たちはみな完全にいやされた状態で永遠に生きます。

「主よ、あなたがいやし主であることを感謝します。」

イザヤ 32章

「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」(15節)

今日の箇所をLBではこう訳しています。

「しかしついには、天から御霊が注がれ、再び、見渡す限りの豊かな収穫が見られるようになります。」

聖霊なる神が臨まれる時、大きな変化が起こるという世界があります。日頃のコツコツとした積み重ねが大切なことは当然ですが、聖霊が臨まれるという神の領域があることを認識することも大切なことです。私たちは自分の限られた能力ではなく、無限の神に希望を抱いて生きることが大切です。メッセージ訳はこう訳しています。

「そうです。泣くのも悲しむのも上から私たちに聖霊が注がれるまでです。」

私たちの涙が喜びに、悲しみが踊りに変えられる神の時があります。その日を待ち望みつつ、今を生きることができますように。

イザヤ 31章

「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。」(1節)

私たちは目に見えるものに弱い傾向があります。目に見えない神を求めるよりも、目に見える何かに拠り頼む方が確実に思えてしまうのです。しかし、3節で神はこうおっしゃられます。

「エジプト人はただの人間であって神ではありません。その馬は取るに足らぬ動物で、どんなものでも蹴散らす霊ではありません。主がこぶしを振り上げると彼らはつまずき、助けるはずだった人たちの間で倒れ、どちらも滅んでしまいます。」(LB)

私たちは、まず、神を求める必要があります。公民権運動で有名なキング牧師がこんなことを言っています。

「日々が暗くなり、夜が寂しくなろうとも、上で支配している神がおられることを理解してほしい。」

イザヤ 30章

「彼らは予見者に『見るな。』と言い、先見者にはこう言う。『私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。』」(10,11節)

終わりの時代には

「人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうの良い話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。彼らは聖書の教えに耳を傾けようとせず、間違った教えにしっぽを振ってついて行くのです。」(?テモテ4:3,4LB)

と言います。私たちは自分好みの話ではなく、聖書の話を求める姿勢が大事です。今日の箇所の民の言葉をLBはこう訳しています。

「ほんとうのことなど、どうでもいい。耳ざわりのいいことだけを話してくれ。うそでもかまなわない。陰気くさいことはまっぴらだ」
今日は主の日。教会は聖書が語られる場所です。