イザヤ 59章

「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(16節)

預言者は言いました。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9)

しかし、今日の箇所を見ると、イスラエルの国のためにとりなしの祈りの手を挙げる人を神は見つけることができなかったと言います。神は今もとりなしの祈りの手を挙げる人を探しています。神は日本の国のためにとりなしの祈りの手を挙げる人を探しています。教会はとりなしの祈りの手を挙げる人を必要としています。先日、こんなツイートがありました。

「イエスを知ることが出来るように祈ることは、私たちができる最も力あることの一つ。誰かのために祈ることは彼らの人生に変革をもたらす。」

五人の友人の名を挙げて毎日祈ってみませんか?

イザヤ 58章

「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」(6節)

教会暦では水曜日からレントに入りました。レントの期間、伝統的にはキリストの受難を覚えて断食をします。今日の箇所は本当の断食とは何かが語られています。自分を敬虔そうに見せるための断食には意味がない。断食はそもそも自分の願いをかなえるためではなく、社会的弱者を覚えるためだと言います。

「飢えた者に食べさせ、困っている者を助けなさい。そうすれば、あなたの光は暗闇の中から輝き渡り、あなたを取り囲む暗闇は真昼のように明るくなります。」(10節LB)

今日は主の日。

「安息日をきよい心で守り、その日には仕事や趣味に熱中したりせず、喜んで一日を過ごし、主の聖なる日だと喜びを込めて言い、自分のしたいことをせずにむだ口を慎み、わたしをあがめるなら」(13節LB)

イザヤ 57章

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(15節)

LBでは後半部分をこう訳しています。

「わたしは謙遜な人を生き返らせ、悔い改めた人に新たな勇気を起こさせる。」

聖書の言う「謙遜」とは自己卑下することとは違います。自分をかわいそうに思うことではありません。自分は神が必要な存在であると認め、神と共に生きることです。自分は有限な被造物であり、いと高き、永遠の住まいに住む、無限な創造者ではないと認めることです。神を神として認めることです。自分中心(自己実現)の人生から神中心(神実現)の人生に方向転換(悔い改め)する時に、神は私たちに新たな勇気を起こされます。

イザヤ 56章

「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(7節)

聖書の神はすべての人の神です。神は言われます。

「わたしの祝福は、神を信じる外国人にも及ぶ。彼らに、『主は私たちを劣った者とする』と考えさせてはならない。」(3節LB)

神の目には人種差別はありません。

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」

は6節にあるように神を信じる外国人に約束したものです。この文脈を心に留めてイエス様がこの箇所を宮きよめの箇所で用いたことを理解する必要があります。イエス様が「強盗の巣」(マルコ11:17)と呼んだのは、当時の宗教指導者たちが外国人の祈りの場を盗んでいたからです。

教会は、すべての民の祈りの家です。

イザヤ 55章

「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」(3節)

神は私たちを招いておられる神です。LBではこう訳しています。

「わたしのところへ来て、耳を傾けてよく聞くのだ。あなたがたは立つか倒れるのかの瀬戸際なのだ。わたしはあなたがたと永遠の契約を結び、ダビデ王を愛したように、今も変わらず、あなたがたを愛したい。」

神は私たちを用いてこの世界にご自身の栄光を現わそうとされています。しかし、そのためには、主のところへ来て、耳を傾けて、よく聞く必要があると言います。使徒パウロもこのように言っています。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

生きた信仰生活は、日々、神の御言葉に耳を傾けることから始まります。

イザヤ 54章

「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。―主の御告げ。―」」(17節)

LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「しかし、やがて来る日には、あなたに向けられたどんな武器も役に立たなくなり、法廷でどんな偽証が並べ立てられても、あなたは正しいと認められるようになる。これが、主のしもべの特権、わたしからの祝福である。こう主は語ります。」

まさに、これが聖書の言う「義認」です。イエス・キリストを信じる者に与えられた特権です。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)

イザヤ 53章

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(5節)

イザヤ書53章は、「苦難のしもべ」と呼ばれる箇所で、イエス・キリストの預言として新約聖書で引用されています。使徒ペテロもこの箇所を引用してこう言っています。

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

LBでは4節をこう訳しています。

「しかし、彼は私たちの悲しみを負い、私たちの嘆きをにないました。」

キリストの受難はとても残虐です。

むち打たれ、

いばらの冠をかぶらされ、

あざけられ、

手と足には釘を打ち付けられ、

十字架にかけられ…。

「これらすべては私のため。私のためにキリストはしてくださった。」

そのことが認識することが出来てはじめて、私たちの人生は一八〇度変わります。そして、いやしをもたらします。

イザヤ 52章

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」(7節)

聖書が言う「良い知らせ」「福音」とは、

『あなたの神が王となる。』

と告げ知らせることです。四つの福音書すべてに、イエス・キリストが十字架に架かられた時、その罪状書きに

「ユダヤ人の王」

と書いてあったことが記録されています。神は神の御子キリストが十字架に架かられることによって王となられました。そして、キリストが三日目に死から復活されたことを通して、最後の敵である死をも滅ぼされたことを示しました。死のとげは切り取られました。ですから、よみがえられたイエス様は言われました。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)

福音とは、十字架の御業を宣べ伝えることです。

イザヤ 51章

「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」(3節)

神の約束はイエス・キリストによってすでに成就しました。罪の呪いはすでに除かれました。しかし、まだ、私たちはこの預言に約束された秩序や美しさや豊かさの完全な回復を見ていません。これらはイエス・キリストが再臨される時に完全に成就します。神の国は今、キリスト者たちを通してこの世界に浸透しています。キリスト者がこの世界でひざまずき、祈りを捧げることを通して、主が慰めをもたらされます。私たちが礼拝を捧げるその場所、楽しみと喜び、感謝と歌声があるその場所を、主が主の園のようにしてくださいます。今日は主の日。心から神を楽しみ、喜び、感謝と歌声を上げ、主に荒野を主の園のようにしていただこうではないでしょうか!

イザヤ 50章

「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」(4節)

LBではこう訳しています。

「神である主は私に、知恵のことばを授けました。疲れきった人に何を言ったらいいかを教えるためです。朝ごとに、主は私を目覚めさせ、御心への理解を深めさせてくれます。」

神は、朝ごとに、聖書のみことばを与えてくれます。私たちは聖書を開くたびに、御心への理解が深められていきます。興味深いことは、神が私たちに御言葉を授けてくれるのは

「疲れきった人に何を言ったらいいかを教えるため」

だと言います。私たちは自分の教養のためというよりも、人々を励ますために日々神のみことばを受け取る必要があります。