2テモテ 3章

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」(14,15節)

聖書を学ぶことは大切なことです。自分で学び、確信したことは揺らぐことのない土台となっていきます。しかし、「どの人たちからそれを学んだか」ということも問われていることも注目する必要があります。すぐ後の16節で、

「聖書はすべて、神の霊感によるもの」

とあるように

聖書を神の言葉と信じている人から学ぶ必要があります。

アルファのニッキー師はこう言います。

「聖書が神の霊感によって書かれたものであるという見解は、時代を超えて全世界の教会において、ほとんど普遍的なものです。」

2テモテ 2章

「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」(24,25節)

中世の暗黒時代の教会が行ったような、力ずくで人を正そうとする方法は、クリスチャンのやり方ではないと聖書は言いますので正当化することはできません。だからと言って、「ことなかれ主義」を奨励しているわけではありません。25節をLBではこう訳しています。

「おだやかに、思いやりをもって話せば、神の助けによって、その人は間違った考え方を改め、真理を悟るかもしれません。」

人は人を変えることはできません。しかし、神の助けによって、人は変わることができます。ですから、私たちは聖霊なる神の導きを求めつつ、できるかぎりすべての人と平和に共存していく必要があります。

2テモテ 1章

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(7節)

若い伝道者であったテモテには、たくさんの恐れがあったことが、パウロの語る言葉から知ることができます。テモテは、パウロのような特別な体験をしたわけでもなく、経験も浅く、自信をもって教会を指導できるような状態ではなかったのだろうと思います。ですから、パウロはテモテに自分の能力ではなく、神が与えてくださったものに焦点を合わせるように促します。どんなに自分の中におくびょうな霊しかないと感じていても、神はあなたに、力、愛、慎み(自制)の霊を与えているではないかと言うのです。私たちもこの視点の転換が必要です。どんなに自分の内に良いものを見いだせなくても、神が私たちに与えてくださっているものがあります。神が自分に与えてくださっているものは何かを考えることができますように。

イザヤ 66章

「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(2節)

神が目を留められるのは、尊大で強い人ではなく『へりくだって心砕かれた人』である、とこの箇所は語っています。なぜなら尊大で傲慢な人は、自分には神が必要ではないと思っているからです。この箇所にもあるように、いま私たちに与えられているすべてのものは本来神からの無償の贈り物です。水も、空気も、土地も、草花も食物も。家族や友人もそうです。それなのに私たちはその方を無視し、すでに「ある」ものからの加工品を造ることに必死です。すべてを与えてくださっている方を、「自分には必要ではない」と無視して生きることは大変矛盾していると思います。生かされていることを、まず感謝する一日でありますように。

イザヤ 65章

「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。」(25節)

主は言われます。

「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」(17節)

神は天地を新しくされると言います。そこでは狼と小羊がいっしょに草を食べ、ライオンは牛のようにわらを食べ、蛇はちりを食べて、人にはかみつかないと言います。傷つく者は一人もなく、壊れるものは一つもないと言います。そのような完全な新しい天と新しい地は、この世界の終わり、イエス・キリストが再び来られる時にもたらされます。その日まで、そのような平和をこの地に作り出す役目が私たち一人一人にあります。

「平和をつくり出す人は幸いです。」(マタイ5:9LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

イザヤ 64章

「神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」(4節)

LBではこのように訳しています。

「世界が始まって以来、私たちの神のように、待ち望む者にすばらしいことをしてくれる方は、ほかにありません。」

使徒パウロはまさにこの箇所を引用してこう言っています。

「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』」(Ⅰコリント2:9)

神を愛する者、待ち望む者に、神は見たことも、聞いたこともない、思い浮かぶこともない素晴らしいことをされると約束しています。神は

「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)

です。

※ 今日は東日本大震災から6年。キリエ・エレイソン、主の憐れみと助けが被災者の方々の上にありますようお祈りします。

イザヤ 63章

「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(9節)

私たちが苦しむとき、神はいつも共に苦しまれています。「足跡」という詩があります。

「ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりの足跡が残されていた。一つはわたしの足跡、もう一つは主の足跡であった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。(中略)

主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡が一つだった時、わたしはあなたを背負って歩いていた。』」

イザヤ 62章

「あなたはもう、「見捨てられている。」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている。」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある。」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。」(4節)
LBではこう訳しています。
「もう再び、『神に見捨てられた地』などと呼ばれません。新しい名は『神が喜ぶ地』また『花嫁』です。」
神は私たちに新しい名を与えてくださるお方です。「わたしはあなたの名を変える」(I will change your name)という賛美があります。
「わたしはあなたの名を変える
あなたはもう
『傷ついた人』
『のけ者』
『ひとりぼっち』
『びくびくする人』
とは呼ばれない
わたしはあなたの名を変える
あなたの新しい名は、
『確信』
『喜び』
『勝利者』
『誠実』
『神の友』
『神の御顔を慕い求める人』」

イザヤ 61章

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、」(1-2節)

キリストがこの地上で最初に説教する時に用いたテキストが今日の箇所です。しかしキリストは

「主の恵みの年を告げ」

というところで読むのを止め、

「神の復讐の日」

を読みませんでした。これは

「神の復讐の日」、「敵が滅びる日」(LB)

を削除されたということではなく、

「今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリント6:2)

ということだと思います。

キリストは貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者を癒すために来られました。キリストの体である教会は、このキリストが働かれやすい環境を提供することが求められています。そのために主の霊が住まわれています。

イザヤ 60章

「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」(19,20節)

終わりの日、やがてもたらされる新しい天と新しい地の預言がここにあります。ヨハネの黙示録にも、こういう箇所があります。

「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(21:23)

神の栄光に輝く都、それが、永遠の天の都です。それは、キリストの永遠の支配を意味し、私たちの嘆きや悲しみが終わる日を意味しています。キリストの支配を歓迎できない人にとっては、天国は苦痛かもしれません。だからこそ、キリストの支配を歓迎する人だけが天国に行けるのかもしれません。