エレミヤ 29章

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。」(11-12節)

この箇所の前にこのように記されています。

「バビロンに七〇年の満ちるころ、私はあなたがたを顧み」

つまり七〇年と言う期間は訓練の時としてユダの人々が受けなければならない試練の時であったということです。今日の箇所はその後に与えられている主のご計画の約束です。偽預言者はすぐにでも解放されると言って人々を騙していました。しかし、神の約束を手にするために必要な『忍耐』を、バビロンの地で彼らは学ばなければなりませんでした。大事なことは、神は良い神であり、私たちに対する計画は将来と希望を与えるためのものであると信頼することを選ぶことです。

明日は、復活祭(イースター)です!

エレミヤ 28章

「そこで預言者エレミヤは、預言者ハナヌヤに言った。「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。 それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたを地の面から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。』」 預言者ハナヌヤはその年の第七の月に死んだ。」(15‐17節)

「預言」をどう受け止めるか難しいところがあります。『主はこう言われる』と言われてしまいますと戸惑うと思います。今日のこの箇所は、私たちがバランスをとるために大切な箇所だと思います。預言は、軽々しく語られるべきではありません。神の名前で語ることに対する恐れが必要です。自分が聞きたい『預言』ではなく、神が本当に語られていることに焦点を当てることが重要です。そのためにも、いつも聖書のみことばに照らして吟味することができるように、聖書に親しむことが求められます。

※ 今日は聖金曜日(Good Friday)。イエス・キリストが十字架にかかられたことを覚えます。

エレミヤ 27章

「バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない民や王国があれば、わたしはその民を剣と、ききんと、疫病で罰し、――主の御告げ。――彼らを彼の手で皆殺しにする。 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞くな。」(8-9節)

神はユダの人々に対してご計画を持っておられました。それは、バビロンに捕囚されることを通してユダの人々が生き延び、悔い改め、もう一度やり直す、というものでした。しかし一方で偽預言者や占い師は神の御言葉とま逆のことを言って人々を安心させ、完全に滅びてしまう道へとユダの人々を誘おうとしていました。これこそ、悪魔のやり方です。悪魔は甘い言葉で私たちを滅びへと導くのです。私たちは甘い言葉にだまされないように気をつける必要があります。

エレミヤ 26章

「そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人は彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちは我が身に大きなわざわいを招こうとしている。」(19節)

エレミヤの預言に対して当時の指導者だった祭司と偽預言者たちは悔い改めるどころかエレミヤを殺そうとしました。しかし、知恵のある何人かが立って人々を諭します。

「神のことばを伝えたと言う理由でエレミヤを殺すなら、神がどんな仕返しをなさるかわかりません。」(19節LB)

神のみことばにどう応答するかが、私たちの人生に大きな影響を与えます。ですから、聖書にはこう警告されています。

「ですから、聖霊はこう警告します。キリストの声に注意深く耳を傾けなさい。今日その声を聞いたら、昔のイスラエル人のように心を閉ざしてはいけません。」(ヘブル3:7,8LB)

エレミヤ 25章

「アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。」(3‐4節)

ユダの人々の問題は、神のことばを聞こうとしなかったところにありました。

「神は何度も、ご自分の預言者を遣わしたのに、あなたがたは耳をふさぎました。」(4節LB)

神が沈黙しているのではなく、私たちが耳をふさいでいるという可能性があります。それは、自分が聞きたいと思うような内容ではないからかもしれません。使徒パウロもこのように警告しています。

「人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうの良い話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。」(2テモテ4:3LB)

エレミヤ 24章

「また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。」(7節)

カルデヤ人の地(5節)とは、バビロン(今のイラク)のことです。ユダの人々は、バビロンへ捕囚されていきました。ユダの人々は、神から離れ、自分たちの目に良いと見えることを優先して生きることを続けていった結果、「捕囚」という結果を招きました。しかし、神は絶望の中にいた彼らに約束の言葉を与えます。

「わたしに対して正しく応答する心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは大喜びで、わたしのもとに帰って来るからだ。」(7節LB)

「わたしが主であることを知る心」、「わたしに対して正しく応答する心」、それは、ペンテコステの日、聖霊が臨まれることを通して実現しました。今、イエス・キリストを信じる者の内に与えられています。

エレミヤ 23章

「いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。」(18節)

23章は偽預言者に対する神のことばが記されています。神は言われます。

「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。」

偽預言者は神の言葉ではなく、「自分の心の幻」を語っていると言います。神は

「むなしい希望を与える偽預言者の言うことを聞いてはならない。」(16節LB)

と言います。彼らの問題を神はこう指摘します。

「彼らのうちの一人でも、神のことばを聞こうと努力しただろうか。」(18節LB)

神のことばを聞こうと努力することは、今、神のみことばである聖書を理解する努力を惜しんではいけないという意味だと思います。

今日は主の日。共に、聖書のみことばに耳を傾けていきたいと思います。

エレミヤ 22章

「彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。―主の御告げ。―」(16節)

人は行いによってではなく、神の一方的な恵みによって救われるというのが、聖書が教えている内容です。しかし、それは、好き勝手な生き方をしても大丈夫という許可証ではありません。この箇所で、神を知ることとは、正義を行うことだと言います。神を本当の意味で知っているならば、不正を行い続けることは不可能です。なぜなら、神は正義の神だからです。LBではこう訳しています。

「彼は貧しい人や困っている人に正義と援助の手が差し伸べられるようにした。それで、何事もうまくいったのだ。このような人こそ、神のそば近くにいることができる。」

貧しい人や困っている人に正義と援助の手が差し伸べられるようにすることが、私たちの人生の祝福となります。

エレミヤ 21章

「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」(8節)

神は私たちに選択の自由を与えています。この自由意志が両刃の剣で、この世に良いことも悪いことも起こる原因になります。しかし、自由意志がなければロボットと同じになってしまい、そこに愛の関係というものは生じません。いのちの道であるイエス・キリストを信じることを選ぶことに意味があります。キリストのからだであり、キリストの花嫁である教会につながることを選ぶことに意味があります。神のみことばである聖書を、自分の信仰と生活の規範とすることを選ぶことに意味があります。誰一人、イエス・キリストを自分の救い主として信じることを選ぶことなしに、クリスチャンになることはありません。神はすべての人に選択の自由を与えてます。

エレミヤ 20章

「しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。」(11節)

10節でエレミヤは言います。

「四方八方から脅す声が聞こえるので、私はおじけづきます。」(LB)

エレミヤは、人々の笑い者になり、ばかにされ、脅され、

「もう辞めたい」

と思いました。しかし、そのような中で、エレミヤは主に目を向けることによって確信を得ます。

「しかし主は、偉大な勇士のように私のそばに立っています。」(LB)

この視点の転換こそが失望を確信に変える秘訣です。エレミヤは神が側に立っておられることに気づいたのです。使徒パウロも似たような表現を用いています。

「神が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)