マタイ8:23-9:13

「すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。」(9:2)

イエス・キリストは、罪人が罪人のままであってよいとは断じて言いません。この箇所でも、「彼らの信仰を見て」と、信仰を前提としています。しかし、この中風の人がイエス・キリストのもとに行くために、みもとに運んできた人たちがいました。私たちもとりなしの祈りをしたり、イエス・キリストを伝えることを通して、イエス・キリストのみもとに人々をお連れする必要があります。イエス・キリストだけが人の罪を赦すことができる救い主だからです。

マタイ7:24-8:22

「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。」(8:3)

「らい病」は、新改訳の第三版では「ツァラアト」と訳されていますが、これはいわゆるハンセン病とは違うため、混合することを避けるためです。感染症のため、誰も、ツァラアトに冒された人に触れることも、近づくこともありませんでした。そもそも、人々が集まる所に来ることも許されませんでした。イエス様は病気をいやすために、必ずさわったわけではありません。この直後の百人隊長のしもべには会ってさえいません。しかし、ここでは、あえて手を伸ばして、彼に触れたところに大きな意味があります。ここにイエス様のみこころがあります。

マタイ6:25-7:23

「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(7:11)

イエス様は、求める者たちに「求めたもの」を下さるとは言いませんでした。「良いもの」をくださると言いました。ですから、ヤコブの手紙にはこう記されています。

「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(4:2,3)

神は祈りに答え、「良いもの」をくださる主です。祈り求めましょう。

マタイ5:43-6:24

「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(6:10)

御国とは、神が治められる場所です。天は神の領域で、神のみこころが完全に行われています。イエス様は、私たちが生きているこの地上に、天と同じように神のみこころが完全に行われるように、神の完全な支配がこの地に実現するように祈るように求められました。それは、私たち一人一人が、まず、日々の生活の中で神のみこころに生きることを求めています。神のみこころは聖書にあらわされています。一つは、「すべての事について、感謝しなさい。」(1テサ5:18)この年、日々、感謝することに挑戦してみませんか?
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

マタイ5:21-42

「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(24節)

神殿に供え物だけしていればいいとはイエス様は言われません。パウロもこう言っています。

「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18新改訳2017)

憎しみをもったまま主に礼拝を捧げることはできません。赦しと和解は供え物以上に大事なことだとイエス様は言います。

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」(9:13)

マタイ4:23-5:20

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(5:9)

神の子どもは平和をつくる使命があります。平和は単に争いがない状態ということではありません。何も見ず、聞かず、言わずがキリスト者のあるべき姿ではありません。使徒パウロはこう言っています。

「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(2コリント5:18)

私たちは和解の務めが与えられています。人はまず何よりも創造主である神との和解が必要です。神の側は、イエス・キリストの十字架のゆえに「その罪を数え立てずに」(LB)和解のメッセージを委ねてくださいました。私たちは伝える使命があります。

マタイ4:1-22

「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」」(17節)

 

イエス・キリストの宣教、その中心は「天の御国」です。「天」は神の領域です。神の支配が完全に実行されている領域です。イエス・キリストの宣教とは、まさに、この神の領域がこの地に臨んでいるということです。「悔い改め」と訳された単語は、「考え方を変える」という意味です。ですから、イエス様の宣教というのは、聖書が預言してきたように神ご自身が王としてこの世界を治められるから、人間中心の考え方から神中心の考え方に変えなさいと言うことです。

 

※ 本日のSSCの婦人会はお休みです。

マタイ2:19-3:17

「ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。」(3章15節)

イエス・キリストが水のバプテスマ(洗礼)を受けられたことに関して、学者たちは様々な憶測をします。なぜなら、バプテスマのヨハネは「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けています」(11節)と言いましたが、イエス様は罪がないのに悔い改める必要があったのかと。しかし、イエス様が水のバプテスマを受けられたのはご自分の罪のためではなく、「すべての義を成就(完成)するため」(直訳)でした。

マタイ2:1-18

「そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、」(14節)

イエス様の時代に、エジプトのアレキサンドリアにユダヤ人共同体が存在していたことは周知の事実です。ディアスポラと呼ばれる離散ユダヤ人共同体とイエス様の接点をほのめかしているようにも感じられます。もっとも15節の「ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。」というマタイの解説は出エジプトの物語が背後にあることをほのめかしています。イエス・キリストがこの地上で成し遂げられたことは出エジプトであると。私たちを解放するためであると。

マタイ1:1-25

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」(1節)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。心機一転、今年は、新約聖書を共に旅していきたいと思います。新約聖書を読み始める上での最初の難関は系図です。もっともこのイエス様の系図は普通ではありません。女性や外国人や道徳的に問題がある人が含まれています。この系図に、神の愛の大きさを垣間見ることができます。また、イエス・キリストはアブラハムとダビデの子孫であることは重要なポイントです。なぜなら、神はアブラハムとその子孫と契約を結びました。(創世記十五章)聖書が約束したメシア(キリスト)はダビデの子孫とあるからです。(イザヤ書十一章)