民数記 26:12-27:11

「しかし、このうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエル人を登録したときに登録された者は、ひとりもいなかった。それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ。」と言われていたからである。彼らのうち、ただエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。」(26:64,65)

約束の地を目の前にして、神は再度、イスラエルの民の人口調査を命じられました。1章で行われた第一回目の調査の時に数えられた者は、ヨシュアとカレブ以外はいませんでした。その理由は、ヨシュアとカレブ以外は神に従うよりも、自分たちの意見を優先したからでした。(14章参照)信仰生活は選択の連続です。神を信頼することを選ぶか、自分たちの意見を優先させるか、私たちは選択しなければなりません。イスラエルの民は話し合いの結果、荒野をさまようことになりました。話し合うことより、神のみこころを求めて祈ることが大事です。

民数記 23:27-26:11

「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、わたしのねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、わたしの憤りを彼らから引っ込めさせた。わたしは、わたしのねたみによってイスラエル人を絶ち滅ぼすことはしなかった。」(25:11)

ピネハスは、イスラエルから主の燃える怒りを離れさせるために、悪事に目をつぶることなく、処刑しました。イエス様の時代のパリサイ人たちが模範としていたのは、このピネハスでした。イエス様に出会う前の使徒パウロも、イスラエルの国の罪が赦され、ローマ帝国から解放されるために、神の律法に違反していると考えられる人たちを、このピネハスを模範として次々に粛清していきました。ピネハスの行動は、確かにこの箇所では称賛されています。しかし、今、すべての罪はイエス・キリストの十字架によって赦されました。神が求められているのは粛清ではなく、イエス・キリストを信じることです。

民数記 22:21-23:26

「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」(23:19)

神と人間には大きな違いがあります。創造主と被造物と言う違い以外にも、今日の箇所では3つの違いが出てきます。まず、第一番目に

人は偽ることがあっても神は偽ることはありません。

第二番目に

人は罪を犯すので、悔いる必要がありますが、神は罪を犯すことはありませんので悔いることはありません

第三番目に

人は言ったことさえ実行できないところがありますが、神は約束されたことは必ず成し遂げられるお方です。

バラクは言いました。

「その神が、『祝福しなさい』とお命じになったのです。神の祝福を変えることはできません。」(20節LB)

詩篇133篇では、私たちが礼拝をするために共に集まるそのところにとこしえのいのち祝福が命じられると言います。

誰も変えることはできません。

民数記 21:4-22:20

「民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」」(21:5)

荒野を旅する彼らに、毎朝天からマナが降ってきました。しかし、彼らは驚くような奇跡のマナを、「みじめな食物」と呼びました。榎本師はこう言います。

 

「いつとはなしに神の言葉を求めなくなった。

あたかも生の秘密のすべてが聖書の中に隠されてあるかのごとくに思って、尋ね求めた時代、そうした初心がいつの間にか忘れられ、現実の生活の方が大きくなり、この現実を生きていくのにみ言葉がとるに足りない軽いものに思われるようになったとき、私たちは求めることを怠るようになる。

そして求めることを怠るとき、私たちは何ものも受けることが出来なくなり、この世の真中で飢えて死にそうになる。(中略)

神に帰る以外に私たちの真の解決はない。」

民数記 19:1-21:3

「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。」(20:8)

荒野を旅するイスラエルの民が水を求めたのは、今回で二度目でした。一度目は岩を打って水を出すように命じられ、モーセは従いました。しかし、今回は命じるだけでいいと言われたのに、モーセは従わずに、前回と同じように打ってしまいました。モーセはこの失敗で、約束の地に入ることが許されませんでした。指導者たちは格別厳しいさばきを受けることを心に留めるべきだと思います。(ヤコブ3:1)しかし、ここにはさらに大きな問題がありました。Ⅰコリント10章に、

「その岩とはキリストです。」

と解説されています。キリストは生ける水を私たちに与えるため、一度、十字架で打たれました。今は打たなくても口で告白すれば(ローマ10:10)生ける水は与えられます。モーセはそのことを象徴することに失敗しました。

民数記 16:36-18:32

「彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。」(16:48)

大祭司はいかなる形であれ、死と関係するものに触れてはなりませんでした。ですから、大祭司アロンが「死んだ者たちと生きている者たちとの間に立った」という意味は、身を挺して民を守ったということです。神の召命によるとは言え、本来は自分たちのリーダーシップを批判していた人たちが神からの罰を受けていたのですから、当然の報いと思ってもおかしくない内容です。しかし、モーセとアロンは、そんな民のためにもいのちをかけてとりなしたというのです。聖書は、神は

「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(2ペテロ3:9)

と言います。

「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ。―だから、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:32)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

民数記 15:1-16:35

「モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのは主であって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。」(16:28)

コラたちはモーセとアロンとに逆らいました。ねたみがその理由だったと思われます。実際、彼らはモーセたちをこう責めました。

「分を越えるのもいいかげんにしてほしい。二人の説教はもうたくさんだ。大した人物でもないくせに。われわれだって、主に選ばれた者ではないか。主はわれわれみなの主だ。」(3節LB)

プロテスタント教会の特徴の一つは万人祭司主義です。これは、誰でも神にイエス様のみ名によって直接祈れるということです。万人牧師という意味ではありません。教会の頭であるキリストは諸教会に牧師という霊的指導者を与え、教会に秩序を与えていることを尊重することは大切です。神の秩序に挑戦したコラたちを神が裁かれたということを心に留める必要があります。

民数記 13:26-14:45

「主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。」(14:11)

偵察に行った一二人のうち、一〇人は自分たちよりも強い人たちがいるから約束の地に入るのは無理だと言いました。神の約束を忘れ、ただ、自分たちの状況しか見えていませんでした。しかし、カレブは違いました。彼は神が約束したから、神が共にいるから「大丈夫、やれば必ずできる。」(13:30LB)と言いました。しかし、神の約束よりも多数の意見が尊重され、イスラエルの民はこの後四〇年間荒野を彷徨うこととなります。多数の意見が必ずしも正しいとは限りません。ポピュリズムの危険性を私たちは認識する必要があります。約束の地に入ることが出来たのは、信じることを選んだヨシュアとカレブだけだったという事実を、心に留める必要があります。

民数記 11:4-13:25

「主はモーセに答えられた。『主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。』」(11:23)

イスラエルの民は荒野で、奇跡的にマナと言う特別な食べ物で神に養われていました。ところが、激しい欲望にかられ、「肉が食べたい」と不平を言い出しました。エジプトから救われなかった方が良かったと言いました。すると神は、一ヶ月間、食べ飽きるほどの肉を与えることを約束しました。しかし、それはモーセにとっては驚くような内容でした。なぜなら、彼らがもっていた家畜ではまかなうことができないほどの人数がイスラエルにいたからです。そんなモーセに神は言いました。

「モーセよ。いつからわたしはそんなに弱くなったのか。わたしの言うことが本当かどうか、今にわかる。」(23節LB)

聖書の神は全能の神です。神に不可能なことは一つもありません。人に出来ないことも、神に出来ないことはありません。

民数記 9:15-11:3

「幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。」(9:15)

幕屋は天と地が重なる場所でした。幕屋をおおう雲は、神の栄光、神の臨在を象徴しました。神の臨在は昼は雲の柱のように灼熱の太陽からイスラエルの民を守りました。夜は火の柱となって、イスラエルの民を暖めました。このことによってイスラエルの民は、彼らのただ中に、神の臨在があることを認識しました。今、キリストのからだなる教会には、雲が幕屋をおおったように、聖霊がおおっておられます。聖霊なる神様ご自身がキリストの教会を守っています。雲がイスラエルの民を導いたように、聖霊は教会を導いています。教会は聖霊の導きに敏感になり、従う姿勢が求められます。

「彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。」(23節)