申命記 29:1-30:10

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」(29:29)

神はすべてのことをお示しになっているわけではないと言います。隠されていることがある、神だけがご存知のことがあると言います。聖書に明言されていないグレーゾーンがあります。それで、教会が民主化(世俗化)すると混乱が起こります。神のみこころは、人の思いを超えた所にあるからです。議論を積み重ねるのではなく、祈りを積み重ねなければ、教会は衰退します。もちろん聖書にはっきり示されていることがあります。聖書に明言されていることに関しては聴従することが求められています。イエス・キリストを信じるならば救われる、永遠のいのちがあるというのは、明言されています。私たちは、神の国の福音に生きていく責任があります。

申命記 28:15-68

「もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、」(28:58)

28章は祝福とのろいの箇所です。祝福の道も、のろいの道も、私たちが選び取るものだと聖書は言います。イスラエルの民は、神のみおしえを守らず、文字通りこの章に記されているのろい、捕囚を体験しました。

「主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった国に行かせよう。」(36節)

イエス様の時代のパリサイ人たちは、ローマ帝国の支配下にあるということは、今もこののろいの中にあると解釈し、聖書のみおしえのすべてのことばを守り行うように人々を教えているつもりでした。イエス様は彼らの偽善を指摘しただけでなく、自ら十字架にかかられることを通して律法を成就されました。ですから今、キリストを信じることが祝福を選ぶことです。

申命記 26:1-28:14

「あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。」(26:5)

イスラエルの人々は、何か特別な存在だったわけではありませんでした。彼らの父祖は「さすらいのアラム人」でした。彼らはヨセフを通してエジプトに下り、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。彼らはエジプト人に虐げられ、神に助けを叫び求めました。神は彼らを省みられました。

「そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。」(8,9節)

謙遜に自分の人生を振り返り、神に感謝と礼拝を捧げることができるように証をすることは大切なことです。

申命記 23:1-25:19

「しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。」(23:5)

神はのろいを祝福に変えてくださるお方です。イエス・キリストを信じる者は、のろいを心配する必要はありません。ヨセフの人生が良い例です。彼は言いました。

「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:20協会共同訳)

神は悪を善に変えるお方です。ですから、恐れる必要はありません。

「あなたに対して造られる武器は、どのようなものであれ役に立つことはない。裁きの時、あなたと対立する舌がどのようなものであれ、あなたはこれを罪に定めることができる。これが主の僕たちの受け継ぐもの、私から受ける彼らの正義である-主の仰せ。」(イザヤ54:17協会共同訳)

申命記 21:1-22:30

「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」(21:23)

イエス・キリストが、どうして十字架にかけられて死ななければならなかったか、その理由がここにあります。ガラテヤ書では、こう解説しています。

「しかし自分の悪い行いのために、私たちが受けなければならないはずののろいを、キリストはご自分の身に引き受け、私たちを律法ののろいから救い出してくださいました。聖書に、『木にかけられる者はだれでも、のろわれた者である』と書いてあるからです。」(3:13LB)

イエス・キリストが私たちのためにのろいを引き受けてくださいましたから、イエス・キリストを信じる者に今、自由が与えられています。それは、

「互いに愛し合い、仕え合うための自由です。」(5:13LB)

イエス・キリストの十字架の意味を無意味にしないように、この真理をしっかりと握り締める必要があります。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

申命記 19:1-20:20

「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(19:15)

私たちはどんなことでも、一人の人の意見で判断してはいけないと聖書は言います。たとえその人が、「みんなそう言っている」と言ったとしても、私たちは一人の人の意見で決断をしてはいけないと注意されています。箴言にもこういう箇所があります。

「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。」

LBではこう訳しています。

「だれの話でも、他の人が裏を明かして、全貌がわかるまではもっともらしく思えます。」(18:17)

ですから、私たちはひとりの証人によって結論を出さないように気をつける必要があります。

申命記 16:21-18:22

「自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。」(17:19)

当時イスラエルの国に王はいませんでした。しかし、周囲の国々にならって王を立てるようになることを神はご存知で、14節以下で王の資格を与えます。王は主の選ぶ者としなければなりません。馬を増やさない、つまり、神以外のものに依存するような人ではならない。多くの妻や、財産を増やしてはならない。ソロモン王はこのすべてを破りました。さらにもう一つ、王の資格がありました。それは、聖書を自分の手もとにおき、一生の間、読み続けることでした。ソロモン王が読んでいたかは分かりませんが、晩年、伝道者の書にこう記しました。

「聞き取ったすべての言葉の結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべてである。」

聖書を手離さなければ主に立ち帰ることができます。

申命記 15:1-16:20

「貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」」(15:1)

残念ながら貧困の問題は今もなくなりません。富の分配はそんなに容易に解決できる問題ではありません。ですから聖書は言います。

「その人がどうしようもなくなり、主に訴えたら、言い逃れはできません。悪いのは明らかにあなたです。」(9節LB)

私たちは金銭に縛られないように気をつける必要があります。なぜなら、

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(1テモテ6:10)

もちろん、依存的な場合は境界線を引くことも大切です。ただ、

「このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。」(10節)

と聖書は言います。

申命記 13:1-14:29

「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。」(14:22)

「こころのチキンスープ」(ダイヤモンド社)という本で有名になったマーク・ビクター・ハンセンという人が、こんなことを言っています。

「収入の一割を納めた瞬間、世の中全体が自分に向かって開かれる」。

LBでは、収入の十分の一を神に捧げる理由をこう訳しています。

「こうして、いつも神を第一にして生きることを学ぶのです。」(23節)

南米チリにある極度に貧しい農民の教会でこれを実践しました。すると、人々の生活が改善されたそうです。そのことを指導した牧師はこのように言っています。

「どんなに状況が厳しくても、極貧の中にあったとしても、御国の原則は欠乏を豊かさに変えることができるということを学んだのです。」

収入の十分の一を神に捧げることを通して天の窓が開かれるというのは、聖書が教える御国の原則です。

申命記 11:1-12:32

「しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。」(11:11)

榎本保郎先生は、このように記しています。

「信仰の世界には山がある、谷がある。しかし、そここそ天のうるおいの地なのである。」

ナイルの河口に広がる肥沃の地から、山と谷の地へとイスラエルの民は向かっていました。自分の努力だけではどうすることもできない、天からの雨を期待しなければ生きていけない世界へとイスラエルの民は向かっていました。まさに、信仰生活とはそのようなものだと思います。イエス・キリストを信じて生きていく中で、山があり谷があります。自分の努力だけではどうすることもできないことを知ります。主の恵みの雨が不可欠だということを学びます。もっとも、山と谷の地だからこそ、天の養いを体験することができるのかもしれません。