雅歌 1:1-4:16

「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。」(1:3)

雅歌は「歌の中の歌」とも呼ばれますが、夫婦の愛の詩です。聖書は結婚という文脈の中において、夫婦がお互い求め合うことを大切にしています。しかし、それはまた同時に、エペソ五章にあるようにキリストと教会との関係として解釈することも大切です。
今日の箇所を新共同訳ではこう訳しています。

「あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい。」

クリスチャンにとって、イエス・キリストの名前はかぐわしい名前です。

「イエス様!」

と名前を口にするだけで、幸せな気持ちになります。イエス・キリストとの人格的な関係があるならば、「イエス様」という名前は特別な名前だからです。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2歴代誌 7:11-9:31

「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、彼らの言うことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはあなたの知恵の半分も知らされていなかったのです。あなたは、私の聞いていたうわさを上回る方でした。」(9:6)

シェバの女王は、うわさ以上にすばらしいソロモンの知恵と事績に圧倒されました。しかし、イエス様は、こうおっしゃられました。

「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」(マタイ12:42)

イエス様は、ソロモンよりもまさったお方です。私たちはイエス様のもとにシェバの女王のように地の果てから行く必要はありません。今、イエス様のもとに行くことができます。死を打ち破り、よみがえられ、今も生きておられるキリストは、キリストの教会におられます。

2歴代誌 5:2-7:10

「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。」(5:13)

「雲」は神の臨在を意味します。賛美に満ち溢れた場所が、「雲で満ちた」、すなわち、神の臨在に満ち溢れたのです。神は賛美を住まいとされます。ですから、生ける神の臨在を体験できる場所は賛美の中です。「ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ」という箇所を見ますと、相当、騒々しい賛美だったことが伺えます。主の前に静まる時も大切ですが、元気よく騒々しく賛美を捧げる時も大切です。悪魔は私たちが神に賛美を捧げることを妨げようとします。神への賛美が満ち溢れている場所に、悪魔はいることができないからです。

2歴代誌2:1-5:1

「私が建てる宮は壮大な宮です。私たちの神は、すべての神々にまさって偉大な神だからです。」(2:5)

ソロモンは、自分ができる範囲で神の宮を建てるという発想はありませんでした。ヤハウェなる神は、すべての神々にまさって偉大な方だから、最高の宮を建てると言いました。そして、助けを求めました。私たちはソロモンのような姿勢が必要です。神の偉大さを認識しているのであるならば、自分の能力を超えるものを神に捧げる必要があるという姿勢です。自分だけではできないものを神に捧げる姿勢です。

伝道者 9:13-12:14

「もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる。しかし知恵は人を成功させるのに益になる。」(10:10)

新共同訳はこう訳しています。

「なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。」

無知のゆえに不要な遠回りすることがあります。日頃の学びが人生の助けになります。LBはこう訳しています。

「斧の切れ味が悪くなると、余計な力がいる。そんなときには刃をとぐことだ。」

斧の刃をとぐ時間は、無駄に見えるかもしれませんが、大きな益をもたらします。同じように、学ぶ時間は、無駄に見えるかもしれませんが、大きな益をもたらします。学べば学ぶほど、知らないことに気づき、私たちの生き方にも変化をもたらします。我以外皆師という言葉がありますが、謙遜に誰からも学ぶ姿勢を持つことができますように。

伝道者 7:1-9:12

「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。」(7:21,22)

LBではこう訳しています。

「人の言うことをすべて気にしてはいけません。時として使用人からのろわれるかもしれません。あなたも、何度も人をのろったはずです。」

自分も何気ない言葉で人を傷つけていることがあります。ですから、何気ない言葉で傷つけられないように、聞き流すことも大切なことです。聞き流すというのは、イエス様がこの地上でなされた行動の一つでもありました。聖書にこういう箇所があります。

「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた」(マルコ5:36口語訳)

私たちも、誰かのことばにいちいち傷つかずに、聞き流すことを学ぶ必要があります。

「だから、正しすぎたり、知恵がありすぎたりして、自滅してはいけません。」(16節LB)

伝道者 4:1-6:12

「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。」(6:7)

人はかすみを食べて生きてはいけないので、日々の糧を得るためにも働く必要があります。しかし、どんなに食欲を満たしても、しばらくすればお腹は空き、そのサイクルに終わりはありません。サマリヤの女にイエス様はこんなことを言われました。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」(ヨハネ4:13)

伝道者の書のキーワードは「日の下」であり、この世のことに焦点が置かれています。この世のものは、食欲だけでなく、どんな欲も、決して私たちを満たすことはありません。一時的に満足するかもしれませんが、すぐにまた渇きます。私たちは、そのことを常に意識する必要があります。どんなものを買っても、どんなゴールを達成しても、決して満たされることはありません。イエス・キリストとの関係だけが私たちを満たします。

伝道者 1:1-3:22

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(3:11)

1節から8節まで、相反する「時」が繰り返されているように見えます。

「壊す時、やり直す時、泣く時、笑う時、悲しむ時、踊る時」(3,4節LB)

しかし、

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」

とあるように、ここでは二つの時を対立させているわけではなく、「神の時」の中で人生の現実がつながっていることに気づかせます。人は神の働きの全体を見ることはできません。泣く時も、笑う時も、実は、神の臨在はそこにあるということです。人生の様々な時、神はそこにおられ、すべてのことを美しくしてくださると。私たちが人生の中で体験する喜びも悲しみも、神の恵みの中では意味があります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2歴代誌 1:1-17

「その夜、神がソロモンに現われて、彼に仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え。』」(1:7)

聖書の神は私たちに

「願い事があれば、言いなさい。かなえてあげよう」(協会共同訳)

とおっしゃられるお方です。しかし、アラジンのジーニーとは違います。私たちのしもべとなって願いをかなえてくれる都合のいい存在ではありません。神は神であり、私たちの願いをきかなければいけないことはありません。しかし、神は「願え」とおっしゃってくださるお方、祈りに答えてくださるお方です。実際神様は、ソロモンの祈り以上に答えられました。

「あなたが富をも、財宝をも(中略)求めず、むしろ、私があなたを立てて私の民の王としたその民をさばくことができるようにと、自分のために知恵と知識を求めたので、その知恵と知識とはあなたのものとなった。そのうえ、私はあなたの前の、また後の王たちにもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよう。」(11,12節)

1歴代誌 28:1-29:30

「そのうえ、私は、私の神の宮を喜ぶあまり、聖なる宮のために私が用意したすべてのものに加えて、私の宝としていた金銀を、私の神の宮のためにささげた。」(29:3)

ダビデは

「全力を尽くして、私の神の宮のために用意をした」(2節)

だけでなく、喜びのあまりそれに加えて捧げたとあります。神に捧げることは喜びです。私たちは受けるためにではなく、捧げるために生きています。29節にこう書いてあります。

「こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。」

捧げることが喜びという世界は、みずから進んで捧げたことがなければ分かりません。ですから使徒パウロもこう言っています。

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)