詩篇 36:1-12

「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(36:9)

私たちはどこに自分のいのちの泉を見出そうとしているでしょうか?どこに光を見出そうとしているでしょうか?イエス・キリストは言いました。

「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14新改訳二〇一七)

イエス・キリストが与えてくださる救いを受け取る時、私たちの内には聖霊が住んでくださいます。日々、聖霊に満たされることを求めるならば、私たちはいのちの泉を体験することができます。他の何か、他の誰かを求めてしまっているがゆえに、渇いているということはないでしょうか?いのちの泉は、聖霊にあります。

「注いでください。あなたの恵みを」(10節)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

箴言 7:21-27

「子たちよ。今、私に聞き従い、注意して私の口のことばを聞け。」(7:24)

聖書のみことばを真剣に聞くことは重要です。聖書の忠告を軽視して、甘いことばに負けて、罠に飛び込む鳥のように誘われていく先は、「地獄への道」(27節LB)、死の道です。聖書は言います。「大ぜいの者が彼女のために一生を棒にふりました。犠牲者は数えきれないほどです。」(26節LB)神の言葉と誘惑者の言葉に、地は満ちています。誰の言葉に耳を傾けるかは私たちの選択ですが、言葉の力を過小評価しないように気をつける必要があります。私たちは言葉によって自由にされ、言葉によって惑わされます。言葉によって神との親しい関係へと導かれ、言葉によって偽りの親密さ、「地獄への道」と導かれます。ですから、聖書は言います。「わたしに聴きなさい。わたしのことばをもっとも真剣に受け取りなさい。」

詩篇 35:19-28

「私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。」と。」(35:27)

神はご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主です。繁栄することが悪いことではなく、繁栄をどう用いるかが問題です。繁栄を目的に生きていく時に、人生は崩れていきます。しかし、過度に繁栄を否定するべきではありません。神はご自分のしもべが繁栄することを願っておられるからです。「しもべ」は、「仕える者」のことです。「仕える心」をもつ人が繁栄するならば、その繁栄は、さらに「仕える」ために有効に用いられることだと思います。ですから大事なのことは「仕える」ことと言えると思います。イエス様はおっしゃられました。「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23:11)神は仕える心を持つ人を捜し、その人の繁栄を喜ばれます。

※ 本日予定されていたユースゴスペルフェスティバルは、新型コロナウイルス感染拡大を防ぐために、自粛し、延期させていただきます。

詩篇 35:11-18

「私は大いなる会衆の中で、あなたに感謝し、力強い民の間で、あなたを賛美します。」(35:18)

新型コロナウイルスの影響で、世界中で今、共に集まって、主に感謝を捧げ、賛美を捧げることが難しい状況になっています。ダビデは、

「主よ、いつまで何もせずに、立ち尽くしていらっしゃるのですか。」(17節LB)

と言いますが、同じように感じている方もいらっしゃると思います。しかし、神様は必ず私たちを救ってくださいます。ダビデは言います。

「お救いください。そうすれば、私は全会衆の前で、感謝の祈りをささげます。」(18節)

共に集まり、大きな会衆の中で、感謝の祈りをささげる日がきます。ハレルヤと賛美を歌う日が来ます。

※ 本日のSSCのビブリオンはお休みです。新型コロナウイルスの一日も早い収束をお祈りします。

詩篇 35:1-10

「私のすべての骨は言います。『主よ。だれがあなたのようでしょう。苦しむ者を、より強い者から救い、苦しむ者、貧しい者を、略奪者から救う方。』」(35:10)

神は、私たちを救う方です。人生には戦いがあります。ですからダビデは祈ります。

「主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。」(1節)

「再確認させてください。あなたが『わたしはあなたを救う』と言うのを聞かせてください。」(3節MSG)

攻撃されている理由は、必ずしも自分に非があるからとも限りません。

ダビデは「ゆえもなく」(7節)

と言います。

私たちが何か悪いことをしているからではなく、正しいことをしているから苦しんでいるのかもしれません。

私たちの苦しみの原因が、私たちより強い存在かもしれません。しかし、私たちを救うとおっしゃられている主は力あるお方です。

「苦しむ者を、より強い者から救い」、「守られていない人を守られるお方」(10節MSG)です。

箴言 7:6-20

「それは、たそがれの、日の沈むころ、夜がふける、暗やみのころだった。」(7:9)

箴言は、「浅はかな」、「思慮に欠けた」人の特徴として、まず、誘惑に近づく行為を指摘します。そして、「もうまもなく日も暮れようとしている時です。」(LB)とあるように、隠しきれると思っていることが愚かだと指摘しているようです。イエス様も言われました。

「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。」(ルカ12:2,3)

私たちは公明正大に生きることが求められています。隣の芝が青く見えるならば、それは人工芝だからかもしれません。

詩篇 34:11-22

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。」(34:18)

12から16節までをペテロは第一ペテロ3章で引用しています。

悪口を言わないこと、

悪を離れて善を行うこと、

平和を求めること、

これらは普遍的に幸いな人生には必要なことです。

忘れてはいけないことは、私たちは自分で自分を救うこともできないということです。主が私たちを救われます。主が私たちの祈りに耳を傾け、救い出してくださいます。MSG訳では18節の前半部分をこう訳しています。

「もしあなたの心が壊れてしまったら、そこであなたは神を見出すでしょう」。

私たちの問題の原因が何であっても、自分の過ち、他者の過ち、それは関係ありません。大事なことは、私たちの問題のただ中で、私たちは神がそこにおられることを発見することができるということです。神は私たちの壊れた心を拾い上げ、修復してくださるお方です。

詩篇 34:1-10

「味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ、主に身を避ける人は。」(34:8)

「味わいなさい、見つめなさい」という表現は、神との関係は頭の中の話ではなく、体験するものだということだと思います。哲学的に神学を勉強するだけではなく、実際に神を味わうことがなければ、本当の意味で神を知ることができないということだと思います。膝を屈めて祈ることなくして、礼拝者として神に礼拝を捧げることなくして、神がいつくしみ深い方であることを味わい、見つめることはできません。味わうためには、口を開ける必要があります。見るためには、目を開ける必要があります。「主がいつくしみ深い方であることを」を英訳では、「主が善い(GOOD)ということを」と訳しています。神が善いお方であることを味わい、見つめるためには信仰が必要です。(ヘブル11:6参照)

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 33:12-22

「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。」(33:18)

「主を恐れる」ことは重要です。神は愛なる神ですが、同時に聖なる神です。神への畏敬の念がなければ、神の恵みの世界を体験することはできません。私たちは、へりくだって、主の恵み、愛、真実を待ち望む姿勢が必要です。新約聖書にもはっきりこう書いてあります。

「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(1ペテロ5:5,6)

神は神であり、人は人です。神は創造主であり絶対者です。私たちは被造物であり、神になることは絶対にありません。神を恐れ、神の愛と恵みを待ち望みましょう。

箴言 7:1-5

「私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。」(7:2)

私たちは瞳を大切に扱います。目は、私たちが生きていくうえで大事な器官ということ以上にとてもデリケートな部分だからです。目に虫や小さな砂が入ってしまうだけでも体全体、時には精神的にも影響を与えます。目に対してこれほどの神経を使っているように、神の御言葉に対して私たちは神経を使って耳を傾けているでしょうか?御言葉が悪魔に持ち去られないようにとしっかりと守っているでしょうか。どのようにして私たちは神の教えをまもることができるのでしょうか。それは、『それほど大切なものである』ということを日々意識するということだと思います。御言葉をぞんざいに扱うのではなく大切にしましょう。

「それが生きる秘訣です。私のことばを宝物のように大事にしなさい。」(LB)