詩篇140:6-13

「私は主に申し上げます。「あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。私の主、神、私の救いの力よ。」(140:6,7)

LBはこう訳しています。

「ああ、私の救い主であり盾である主よ、この祈りに耳を傾けてください。」

天地万物を創造された偉大な神を、私の神、私の救い主、私の盾と呼ぶことができることは、なんという特権でしょうか。しかも私たちは、このお方に祈ることができるのです。ダビデの人生はまさに波乱万丈でした。そんな彼がすばらしい人生を送ることができたのは、この信仰にあったことは明らかです。私たちもダビデのように、私の神、私の救い主、私の盾と呼ぼうではないでしょうか。私たちの主イエスは、そのために十字架にかかり死なれ、よみがえられたのですから。

「私の主、私の神、私の救い主、私の盾なるイエス様、あなたを呼び求めます。」

箴言 30:1-10

「神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾。神のことばに付け足しをしてはならない。神があなたを責めて、あなたが偽り者とされないために。」(30:5,6)

LBではこのように意訳しています。

「神のことばはすべて真実で、神は頼ってくる者をみな守ってくださいます。だから、神の言うことに何かを付け加えて、うそをついたと言われないようにしなさい。」

私たちは聖書を神のみことばであると信じています。ですから人為的な付け足しは恐ろしいことと考えます。神が言ってもいないことを、神の名前で語るほど、恐ろしいことはないからです。それはまた、聖書の全体像(メタ・ナラティブ)を意識することも含まれます。

天地創造→人間の堕落→アブラハム契約(イスラエル)

→イエス・キリストの十字架と復活→教会→新天新地。

この聖書の全体像を認識し、創造主なる神により頼んで生きていく中で、主の守りを体験します。

詩篇140:1-5

「主よ。私をよこしまな人から助け出し暴虐を行う者から守ってください。」(140:1)

「暴虐」と訳された単語は、多くの場合、社会的に力のある者たちが弱者を搾取、抑圧することを含意します。不当な告発を受けた信仰者が主なる神に「正しい裁き」を祈り求める姿がここにあります。神はモーセを通してイスラエルの民にこう告げました。「裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものだからである。あなたがたにとって難しすぎる事柄は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」(申命記1:17)このみことばのゆえに詩人は言います。「私は知っています。主が苦しむ者の訴えを支持し貧しい者のためにさばきを行われることを。」(12節)

詩篇139:17-24

「神よ。私を探り私の心を知ってください。私を調べ私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください。」(139:23,24)

「とこしえの道」、それは「創造の神が永遠の昔に定めた人間の歩みを指す」と月本氏は言います。

「主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。」(エレミヤ6:16)

神は人を造られた時、幸いの道を用意されていました。しかし、人は神に背を向け罪を犯したがゆえに、その道を見失ってしまいました。聖書は警告します。

「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」(箴言16:25)

私たちは謙遜にとこしえの道を歩むことができるように、道であり、真理であり、いのちであるイエス様に祈り求める姿勢が必要です。

詩篇139:11-16

「私が隠れた所で造られ地の深い所で織り上げられたとき私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られあなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々がしかもその一日もないうちに。」(139:15,16)

この世界に、偶然生まれて来た人はいません。この世界に存在するすべての人は、神が存在することを望まれたがゆえに存在しています。私たちが母の胎内で構成されている時に、天は喜びに満ちていました。主のみこころのゆえに、一人一人は母の胎内で形成されていきました。目を閉じて、主の御手が、母の胎内で自分を形作られている情景を思い浮かべてください。神は「しまった」などと言うお方ではありません。私たちを形作り、私たちの存在を喜ぶ主の御顔を思い浮かべることができるでしょうか。主の目には、私たちの存在は、高価で貴いのです。

箴言29:19-27

「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」(29:25)

へりくだることと自信を失うことは違います。自信を持つことと謙遜さを失うことは違います。大事なことは自分を過信することなく、主に信頼することです。私たちは、自分の能力や功績ではなく、主を信頼することからくる確信を持つ必要があります。メッセージ訳で25節をこう訳しています。

「人の意見の恐れは何もできなくする。神を信頼することがそのことからあなたを守る。」

今日はアドベント二週目。キリストのご降誕を覚えつつ、共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇139:1-10

「主よ。あなたは私を探り知っておられます。」(139:1)

神はすべてを知っておられる神です。表に出る行動だけでなく、私たちの心の奥底までも知っておられます。ですから、神に隠すこともできなければ、逃れることもできません。人は神を自分の願いをかなえてくれるジーニーのような存在のように捉えている限り、本当の意味で神との関係を築くことはできません。

「そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて及びもつきません」(6節)

と神を神として認めることができて初めて、神との関係を築くことができます。

私たち以上に、神が私たちのことを知っておられるのにも関わらず、私たちを愛しておられることを知るならば、心配することは何もありません。聖書は言います。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

詩篇138:1-8

「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。」(138:3)

私たちが主を呼び求めるなら、主は私たちの叫びに答え、私たちのたましいに力を与えて強くしてくださいます。LBでは、こう訳しています。

「あなたは必ず私の祈りに答えて、力を与え、励ましてくださいます。」

私たちはどんなに、日々、力が必要なことでしょうか。力はただ主から来ます。ですから使徒パウロは言いました。

「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

「私のたましい」と訳された単語は、「私のいのち(ライフ)」とも訳せます。神は私たちのいのちに力を与え、強めてくださるお方です。神のみこころを行うために、神は私たちに力を与え、強めてくださるお方です。ただ私たちは、主を呼ぶ必要があります。膝をかがめ、力を与えてくださる主を認め、祈り求める姿勢が必要です。

詩篇 137:1-9

「エルサレムよ。もしも、私があなたを忘れてしまうなら、この右手もその巧みさを忘れるがよい。」(137:5)

詩人は、バビロンに捕囚され、エルサレムから遠く離れた異国の地にいました。しかし、彼の心はいつもエルサレムにありました。彼にとってのエルサレムとは、単なる故郷ということではありません。エルサレムとは、彼らにとって神の神殿がそこにあった神の臨在を意味しているのです。つまり、エルサレムへの渇望とは、神の臨在への渇望だったのです。私たちはそのような神の臨在に対する渇望があるでしょうか?個人的にも神は臨んでくださるお方ですが、イエス様は、わたしの名前によって集まる所にわたしもその中にいるとおっしゃられました。(マタイ一八・二〇参照)主の臨在を求めて、主の御名によって集まりましょう。主日礼拝を大切にしましょう。主は臨んでくださいます。

箴言 29:10-18

「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。」(29:18)

「幻」と訳された単語が預言者が見る「幻」に用いられる単語なので、「預言的な幻」と訳されることがあります。それで、「神の啓示」、すなわち聖書の御言葉なしでは暴走すると言う意味と理解します。それで「しかし、みおしえを守る者は幸いである。」と続きます。メッセージ訳では前半部分をこう訳します。「もし、人々が神のなされていることを見ることができないならば、彼らはそこらじゅうでつまずく。」私たちは神の御言葉、神の御業に焦点を合わせる必要があります。神のみこころを求めないならば人は好き勝手にふるまい、結局、つまずき倒れてしまいます。使徒パウロは言いました。「私は天からの幻に背かず、…宣べ伝えてきました。」(使徒26:19,20)天からの幻、聖書の御言葉に生きることができますように。