マタイ 11章

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(11:28-30)

人生は自分自身のために生きるよりも、神のために生きる方が生きやすいとイエス様は言われます。

イエス様は「わたしの荷は軽い」と言われますが、自分自身を喜ばすことよりも、神を喜ばす方が大変ではないと言います。

なぜならば、人は神を喜ばすために造られたからです。

イエス様はまた、「わたしから学びなさい。」と言われました。

イエス様は私たちの罪のために十字架で死なれただけでなく、私たちが学ぶことができるように、完全な神でありながらも、完全な人としての歩みをしてくださいました。

マタイ 10章

「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」(10:42)

弟子たちを受け入れることは、派遣したイエス様を受け入れることだと言います。

そして、イエス様を受け入れることは、イエス様を派遣した父なる神を受け入れることだと言われます。

派遣された人を受け入れることは、派遣した人を受け入れているのと同じだということです。

それで、最後の審判において、宣教の働きに協力した人が報いから漏れることは断じてないと言われます。

宣教の働きは、イエス様の宣教の継続であり、教会が果たさなければならない務めだからです。

マタイ 9章

「イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。」(9:27-29)

イエス様の癒しの奇跡は、「ダビデの子」、すなわち「メシア」としてのあわれみの御業でした。

それは、イエス様を信じる信仰によって可能とされ、イエス様の力ある言葉を通して実現しました。

私たちは神にあわれみを求めますが、イエス様から「わたしにそれができると信じるのか」と問われたらどう応答するでしょうか。

私たちは「神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

今日は主の日。ともに主なる神に礼拝を捧げましょう。

マタイ 8章

「しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」(8:8)

ローマ軍の核となったのが百人隊で、それを指揮したのが百人隊長でした。

各軍団の百人隊長たちは自分の部隊を教練し、生活を共にし、軍団兵を戦場へ引率しました。

このような百人隊長の存在が重要であったことは、兵士や退役軍人の墓に所属していた百人隊長の名が刻まれていることからも分かります。

百人隊長は「言葉」の力を理解していました。

「私も権威の下にある者だからです。」(9節)と言うように、その力は、彼にではなく帝国にあることも理解していました。

彼はイエス様の権威を、力ある神の御国の権威として認識したのです。

だから、「ただ、おことばを下さい。」と言いました。

私たちも同じような信頼をもって神のみことばを聞いているでしょうか。

神のみことばは力があります。

マタイ 7章

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(7:7)

聖書はより深く、より熱心に祈り求め続けることを命じています。

「一生懸命働いてもこの世の生活において貧しい人はいるが、一生懸命祈る人で霊的に貧しい人はいない。」(ブローダス)

神は熱心な祈りに応えてくださいます。

しかし、願った通りに与えてくださるとは言いません。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(11節)

神は祈りに応えて、良いものを与えてくださいます。

最善の時に、最善の方法で最善のものを与えてくださいます。

祈らなければ偶然も起こりません。

マタイ 6章

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(6:33)

私たちは「神の国」、神の統治(支配)を求めます。

私たちは「神の義」、人間の移ろいやすい正義ではなく、神の側に立つことを求めます。

もちろん、この地上に生きる限り、衣食住は重要な関心事です。

イエス様も

あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。

と言われます。

神は私たちの必要をご存知であり、必ず配慮してくださいます。

だから、地上の生活の関心事に忙殺されることなく、神の配慮に信頼して

まず神の国と神の義を求めなさい。

と言われます。

今、神がなされていることに全集中し、明日起こるかもしれない、起こらないかもしれないということに気を取られないようにしましょう。時が来れば、どんな困難なことがやってきたとしても、あなたがそれに対処することを神が助けてくれます。」(34節MSG)

マタイ 5章

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(5:16)

イエス様は、神の御国の民は

「地の塩」(13節)、

「世の光」(14節)

だと断言されました。

「地の塩」とはまさに「この地」(人間世界)に対して働きかけるべき使命があると言うことです。

塩の使命は腐敗から防ぎ、味つけることです。

私たちはこの地が腐敗していかないように防ぐ使命があります。

また、この地が単調とならないように味つける使命があります。

光は公共性を象徴します。

御国の民はどんな事があっても、くじけて逃げ隠れするのではなく、積極的に世に対して良い行いをもって信仰を証言しなければなりません。

自分が称賛を得るためでも、自分の救いを確保するための功績を積むためでもありません。

人々を神へと立ち返らせるためです。

マタイ 4章

「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」(4:23)

イエス様の働きの特徴は三つありました。

一つ目は、会堂で教えること。

もちろん、ユダヤ人会堂(シナゴーグ)で教えられたという意味は、聖書を教えられたと言うことです。会堂では聖書が朗読され、その解説があり、祈りが行われていたからです。

二つ目は、御国の福音を宣べ伝えること。

「御国」とは「神の統治(支配)」を意味します。

良い知らせ(福音)を伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。」(イザヤ52:7)

三つ目は、あらゆる病、あらゆるわずらいを癒されたこと。

神の統治(支配)は癒しの御業によって現されました。

イエス・キリストは今も、生きて、働かれています。

マタイ 3章

「しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。」(3:15)

イエス様は罪のないお方ですから、悔い改めのバプテスマを受ける必要はなかったはずです。

実際、ヨハネはそのことが分かっていましたから、「そうさせまい」(14節)としたとまで書いてあります。

しかし、イエス様は悔い改める必要がなくても、私たちの模範として、へりくだってバプテスマを受けられました。

どう考えてもヨハネが言ったように、ヨハネの方がイエス様からバプテスマを受ける必要がありました。

しかし、イエス様はへりくだり、バプテスマをヨハネから受けられました。

このような謙遜な姿勢がキリスト者に求められています。

この後、天が開き、聖霊が鳩のようにくだり、父なる神から声があり、神が三位一体であることが顕されました。

マタイ 2章

「そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。」(2:21)

イエス・キリストはダビデの子孫として、聖書に預言された通りベツレヘムで誕生しました。

ヘロデ大王はエルサレムの南約十二キロ、ベツレヘムの南東約四キロに要塞宮殿を建築していましたから、ベツレヘムに生まれたと言う話は脅威としか感じなかったかもしれません。

ヨセフはマリアと幼子を連れて、主の使いが夢で言ったようにエジプトに逃亡しました。

当時、エジプトのアレキサンドリアにはユダヤ人コミュニティがあったことが知られています。

エジプトでは博士たちが持ってきた黄金、乳香、没薬を用いて生活をすることができたのだと思います。

神は命じるだけでなく、必要を満たしてくださるお方です。

ヨセフは再び、主の使いが夢で語った時に、従順してイスラエルに戻ります。

みことばに従順する人生です。

今日は主の日。ともに主なる神に礼拝を捧げましょう。