マタイ 21章

「もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」(21:3)

王の入城にふさわしいのは白馬だと思います。

驚くことは、イエス様がエルサレム入城に選ばれたのは子ろば、ちいろばでした。

白馬に比べれば見劣りしますが、それは預言の成就だったと聖書は言います。(5節参照)

ちいろば先生こと、榎本保郎先生はこんなことを言います。

「『主がお入りようなのです』とのお召しを受ければ、自分の事情を訴えないで従っていくのである。それは自分の周りの事情も神にゆだねていくということである。そしてだれが私を支配し、生かし、許す力を持っているかを知り、そのかたを恐れねばならない。」

イエス様に用いていただけること以上に、人にとって幸いなことはありません。

私たちは自分の足りなさではなく、ちいろばさえ用いてくださるイエス様に焦点を合わせる必要があります。

マタイ 20章

「自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」(20:15)

ぶどう園の日雇い労働者のたとえのポイントは、私たちが業績思想という人間的見方に縛られて、神の主権までも犯そうとしていないかというところにあります。

ぶどう園の主人は、朝早く、九時、十二時、三時、五時と労働者を雇いますが、それぞれ一日一デナリ(一日分の労賃)で契約します。

主人は最後に来た人から労賃を支払うのですが、労働時間に応じてではなく、契約通り、賃金を支払います。

朝早くから働いていた人たちはもっと多くもらえると期待していたので、不平を言います。

すると、ぶどう園の主人は、

それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。

と問います。

人は、自分の業績ではなく、神の驚くばかりの恵みによって救われます。

マタイ 19章

「イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」」(19:26)

金持ちの青年に対し、イエス様は言われました。

完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」(21節)

金持ちの青年は、「このことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。」(22節)と言います。

ヨーダーという学者は、これは神(シャロームの経済学)か、抑圧と搾取の「富の経済学」かの選択だと言います。

事実、金持ちの青年とは対照的に、取税人ザーカイは自分の財産を施します。(ルカ19章)

立ち去る者もいれば、神に従う者もいます。

「人は自分の主権者を選ばなければならない。」(ヨーダー)

マタイ 18章

「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」(18:33)

人は人知をはるかに超えたキリストの愛と恵みによってのみ生きることができます。

私たちはキリストの十字架が私たちの罪のためであったことを知っています。

しかし、神がどれほどの犠牲を支払ってくださったのか本当の意味で知っているでしょうか。

神のあわれみを体験した人は、あわれみに生きる人とならなければなりません。

聖書は明確に伝えます。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)

イエス様は主の祈りの中で、日々、私たちにこのように祈るように教えられています。

私たちの罪をお赦しください。私たちも、私たちに罪を犯す者を赦しました。」(6:12LB)

マタイ 17章

「イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」(17:20)

弟子たちが悪霊を追い出せなかった理由を、イエス様は信仰の薄さ(「小信仰」直訳)だと言いました。

十章でイエス様が弟子たちに権威を授け、遣わした時、弟子たちは神の力を体験したはずでした。

「からし種ほどの信仰」とあるように、イエス様の真意は信仰のサイズではないと思われます。

弟子たちは自分たちの信心で追い出せると思い込んでいたのだと思います。

弟子たちは、自分たちではなく、神に働いていただくことを信じ、期待する、生きた真の信仰が必要だったのです。

人にはできないことも、神にできないことはありません。

だから、生ける神に信頼する者には、できないことは何もありません。

マタイ 16章

「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」(16:18)

「教会」、それは人間が考え出した制度や組織ではありません。イエス・キリストが建てると約束された信仰者の集まりです。

「この岩」とは、16節のペテロの信仰告白、

あなたは生ける神の子キリストです。

教会の土台は

生ける神の子キリスト」、

今も生きて働かれておられる神の御子、キリストです。

私たちはイエス・キリストの御名によって集まり、イエス・キリストの御名によって父なる神に祈ります。

私たちは三位一体なる神に、賛美と礼拝を捧げます。

キリストの福音を持っている教会は「天の御国の鍵」(19節)が与えられています。

天を閉じるためではなく、開くために与えられています。

福音を宣べ伝えていきましょう。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

マタイ 15章

「イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」」(15:32)

イエス様は「信仰があれば、食べ物がなくても大丈夫」とは言われませんでした。

イエス様はとても現実的で、空腹のままだと途中で動けなくなるかもしれないと群衆を思いやり、再び、供食の奇跡を行われました。

私たちもイエス様の姿に学ぶ必要があります。

聖書はとても実践的です。

あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。」(ヤコブ2:16)

あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。」(マタイ6:32)と言われた主は必ず私たちの必要を満たして下さいます。

マタイ 14章

「そして、群衆に草の上に座るように命じられた。それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。」(14:19)

男だけで5千人の群衆に対して、イエス様は弟子たちに、

あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。

と言われました。

弟子たちは自分たちが準備できる全てをイエス様に差し出して言いました。

ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。

するとイエス様を5つのパンと2匹の魚をとり、天を見上げて賛美の祈りを唱えて、パンを裂いて弟子たちに渡しました。

それはユダヤ人の日常の食事を想起させるものでした。

しかし、弟子たちが群衆に配ると

人々はみな、食べて満腹した。

と言います。

私たちは「しかありません」と思うのですが、持てるものをイエス様に捧げるとき、イエス様はそれを用いて偉大なる奇跡を行われます。

マタイ 13章

「天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。」(13:45,46)

天の御国の価値は、どんな高価な真珠も比べられるようなものではありません。
このたとえのポイントは、本当に価値のある真珠を見つけたら、自分がもっていたほかの真珠の価値は、色あせてしまったということです。

イミテーションを幾つもっていても、本物の真珠にはかないません。

本物の真珠を手にすると、イミテーションの価値は色あせてしまいます。

同じように、まことの神様に出会うならば、その他の哲学や宗教は、色あせてしまうと言うのです。

アリスター・マクグラス教授はこう言います。
ここにでてくる真珠のように価値のある福音を見るときに、この商人のように私たちもその他のものの価値が薄れていくと言う体験をしていなければ、あなたは、何かを失っている。

マタイ 12章

「良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。」(12:35)

恐ろしいことにイエス様は、「心に満ちていることを口が話すのです。」(34節)と言います。

つまり、私たちの心に何を満たしているかが重要だということです。

私たちの心の倉が、前向き、信仰的なもので満たされていたら、それは良い倉だと言えると思います。

しかし、否定的、不信仰なもので満たされていたら、それは悪い倉と言わざるを得ないと思います。

倉ですから、日頃、自分が何を読み、何を見、何を聞いているかが、何を心の倉に蓄えているかを明示していると言えます。

日々、聖書を読み、神のみことば、前向き、信仰的なものを心に蓄えるように心がけていきましょう。