ルカ 17章

「イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。」(17:16)

「サマリア人であった」と言う意味は、ユダヤ人たちがその信仰に問題があると見下していた人だったと言うことです。

神の民であるはずのユダヤ人たちは神に感謝することさえしていなかったと言う皮肉です。

キリスト者もユダヤ人たちと同じように、神の恵みを当たり前のように享受して、感謝することを忘れているということはないでしょうか。

祈りが答えられても、自分が頑張ったから、ラッキーだったからという言葉で本当は神がしてくださっていることを無視してはいないでしょうか。

私たちが今日生かされているのは、偶然でも、ラッキーでもありません。

神が生かして下さっているから今日という日があります。

神に感謝を捧げましょう。

パスワードは・・・・

ありがとう!

ルカ 16章

「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」(16:10)

イエス様はよくお金の話をされました。

ビリー・グラハム博士はこんなことを行っています。

「お金に対する考え方が正されれば、人生の他のほとんどの分野も正すことができます。」

お金も含めて神が与えてくださった全てを誠実に管理するならば、より多くのものを神が託されるようになると言います。

お金は使うものであって、愛するものではありません。

お金を愛して人を使うのではなく、人を愛してお金を使うのです。

聖書ははっきりと言います。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」(1テモテ6:10)

あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」(13節)

ルカ 15章

「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(15:4)

イエス様のたとえ話のポイントは明確です。

神は失われた羊を捜す神であると言うことです。

羊は愚かな動物で、その愚かさのゆえに迷子になってしまいます。

私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。」(イザヤ53:6)

とありますが、人は羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行く傾向があります。

しかし、大事なポイントは、そんな私たちを神は捜されるということです。

創世記から神の捜索は始まっていますが、イエス様によって失われた人を見つけることが実現し始めました。

イエス様は言われます。

人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(19:10)

ルカ 14章

「ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。そのとき人々はじっとイエスを見つめていた。」(14:1)

人々は「じっとイエスを見つめていた」と言います。

問題は目を皿のようにして見ていた動機の部分です。

その動機の部分を明らかにしたのがイエス様の言葉です。

安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」(3節)

パリサイ人や律法の専門家たちにとっては、病気が癒されることより、律法を守るかどうかの方が重要だったと言うことです。

自分たちの律法理解の枠組みの中にイエス様を収めようと試みたのです。

私たちも信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないように気をつける必要があります。

しかし、自分の枠組みの中にイエス様を収めるためではなく、私たちの枠組みを広げるためにじっと見つめ続ける必要があります。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

ルカ 13章

「番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。」(13:8)

今日の箇所のたとえ話をメッセージ訳はこう訳しています。

ある人が庭にリンゴの木を植えました。彼はりんごが実るのを期待しましたが、何も実りませんでした。彼は庭師に言いました。「いったいどうしたんだ?三年前からリンゴが実のを期待しているのに、リンゴが一つも実らない。この木を切ってしまえ。これ以上、良い土地を無駄にする必要はない』。「庭師は言いました『もう一年猶予をください。周りを掘って肥料をやってみます。来年は実るかもしれません。実らなかったら切り倒しましょう』」。」(6-9節)

私たちは実らすことができない木のようです。

この良い土地にふさわしくありません。

しかし、豊かに実らせる可能性があると主は言われます。

それまで、イエス様は私たちをとりなし、恵みで囲まれると言われます。

ルカ 12章

「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」(12:21)

イエス様は言われました。

自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。」(33,34節)

しかし、多くの人はイエス様の譬え話に出てくるこの金持ちのように財産を蓄えれば、何の心配もなく余生を楽しめると思い込んでいるのではないでしょうか。

しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」(20節)

私たちの命は神の御手の中にあります。

天に宝を積む人生を歩むことができますように。

ルカ 11章

「わざわいだ、律法の専門家たち。おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ。」(11:52)

パリサイ人や律法の専門家たちの問題は何だったのでしょうか。

彼らは道徳的で、模範的で、勉強熱心な人たちでした。

しかし、裁きの態度で人々と関わり続けました。

ヘンリ・ナーウェンという神学者がこんなことを言っています。

裁いたり、非難したり、評価したり、等級をつけたり、レッテルを貼ったり、このようなことのために私たちはこの世に遣わされたのではありません。人々についてこうだと決めてかかり、人に、どこが間違っていて、どう変えるべきかを教えなければならない、といった態度で何かをしようとするなら、私たちはさらに人々の間を引き裂くだけです。

使徒パウロは「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」(1コリント8:1)と言います。

私たちは「知らない」ということを謙遜に認め、愛に生きることです。

ルカ 10章

「ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」(10:21)

当時の人は知っていると思っていました。

しかし、本当の意味で神がどういうお方なのか、イエス・キリストを通してでなければ知ることはできません。

神がご自身を啓示されないかぎり、人は神について本当に知ることはできないのです。

ですから、イエス様は言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

だから使徒パウロは言いました。

私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。」(Ⅱコリント4:5)

ルカ 9章

「すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」(9:62)

メッセージ訳では今日のイエス様の言葉をこのように訳しています。

先延ばしにしてはいけない。後ろ向きに考えてはいけない。神の御国を明日に延ばすことはできない。今を生きよう。

「今を生きよう」と和訳した英語は「今日をつかめ」(Seize the day/Carpe diem)です。

イエス様は今を生きることを大切に教えました。

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)

与えられた一日一日を大切に、先延ばしにせず、神の御国に生きることができますように。

ルカ 8章

「「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた。」(8:39)

一人の人が悪霊から解放されるためにたくさんの豚が犠牲になりました。

それを見た人々はイエス様に「自分たちのところから出て行ってほしいと願った」(37節)と言います。

中澤師はこう解説します。

「イエスのいやしが経済的な痛みを伴うものであったとき、人々はイエスの奇蹟を歓迎しなかった。」

神の目には一人一人は高価で貴く、事実、その命でさえも捧げてくださいました。

一人の人の魂が救われることよりも、大事にしてしまっているものがあるでしょうか。

支払わなければならない犠牲のゆえに、イエス様を追い出すことがありませんように。

興味深いことに解放された人は「町中に言い広めた」と言います。

「イエスが自分にしてくださった」ライフ・ストーリー(証)を広めましょう!