詩篇 98篇

「確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。」(98:9)

悪魔はアダムとエバを誘惑するときにこう言いました。

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる。』(創世記3:5)

これこそがこの地上を地獄のようにする最大の、そして唯一の理由だと思います。

それぞれがそれぞれの善悪で生きていることによって人間は争い、愛をなくし、本来神様の意図した姿とはかけ離れた歩みをしてしまっているのです。

謙遜になってイエス様を受け入れ、私たちが握りしめてしまっている善悪の判断を手放して神様に委ねる時、回復と和解が与えられ、「自分の善悪」ではなく「イエス様が何を願っておられるか」を大切にするようになります。

「自分の義」という餌をサタンに与えて、太らせてしまってはいないでしょうか。

詩篇 97篇

「主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちの祈りを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。」(97:10)

悪を憎むことはキリスト者の生き方です。

しかし気をつけなければならないのは私たちがいつも完璧に善悪の区別をつけられるわけではないということです。

個人的な感情や願いがあるとそれがフィルターとなって私たちの心を曇らせてしまいます。

使徒の働きの中にガマリエルというパリサイ派の律法学者がでてきます。

パウロの先生だったといわれる人物ですが、彼の言葉が私たちに良い指針を与えてくれると思います。
そこでいま、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対するものになってしまいます。

詩篇 96篇

「確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばきその真実をもって国々の民をさばかれる。」(96:13)

神様が地をさばく、ということばは恐ろしく感じる人もいるかもしれませんが、今のような状況では大きな慰めの言葉のように感じます。

とても理不尽に見える状況や悲しみ、苦しみが放置されているように見えるとき、いったい神様はどこにいるのだろうと絶望的な思いにさいなまれます。

でもこの箇所にあるように、主は必ず主の義をもって世界をさばかれます。

誰一人逃れることはできません。

どんなに地上で権力を持っていても大金持ちでも、決して逃れることはできないのです。

わたしたちは裁く側ではありません。

完全でもありません。

でも主の義は完全であり正しく、そのことに信頼し委ねることのできる私たちは幸いです。

詩篇 95篇

「さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。感謝の歌をもって、御前に進みゆき、賛美の歌をもって、主に喜び歌おう。主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。」(95:1-3)

この箇所を読むたびに、ミクタムの赤本一番にある賛美を思い出します。

まさにこの箇所にメロディをつけたものなのですが、生き生きした希望にあふれた曲でどんなに落ち込んでいてもこの賛美を歌うと心が元気になっていきます。

賛美は不思議です。

神様に捧げているはずなのに、気付くと自分が元気になっているのです。

賛美を捧げる時に、神様に愛されていることを体験します。

賛美を捧げる時にどんな状況も主にあって最善に導かれることを確信することができます。

いま落ち込んでいるなら、ぜひ主に賛美を捧げてください。

生ける水の川が流れ出るのを体験するなら、今がベストタイミングです!

詩篇 94篇

「わたしのうちで思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばせてくださいますように。」(94:19)

思い煩いたくないと思っても、思い煩ってしまう。

心配しなくて済むならどんなに楽かと思っても、心配ばかりしてしまう。

わたしたちは神様に委ねればよいとわかっているのに自分で思い計り、自分の考えや判断にどれほど限りがあり、無益であるかを思い知らされます。

もし主の助けの手が差し伸べられなかったら今頃私は死んでいたことでしょう

と17節で詩人は語っています。本当に私たちを愛し、心配し、計画を持ち、導いてくださるのは主だけであることを、私たちは人生をかけて学んでいくのだと思います。

私たちに最も影響を与えるのが、「誰か」の言葉ではなく「主の」言葉でありますように。

主の語られる声に耳を傾けるためにきょうも聖書の御言葉を読みましょう!

詩篇 93篇

「主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。」(93:1-2)

リビングバイブルではこの箇所を

ああ神よ。永遠の昔から、あなたは世界を支配しておられます。

と訳しています。

先週136億光年離れた星の観測に成功した、というニュースがありました。

どのくらいの距離なのか、想像することがまったくできません。

神様の大きさにただただ圧倒されるばかりです。

でも、わたしたちは意識的に神様の偉大さに目を向ける必要があると思います。

わたしたちを愛してくださっている神様は全宇宙を創造し支配しておられる全能の神です。

その神様が私たち一人一人に目を留めてくださっている。

私たちの造り主のもとに行き、それぞれが与えられた人生の目的に焦点を当てることができればと願います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 92篇

「主に感謝することは、良いことです。いと高き方よ、あなたの御名をほめ歌うことは。朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を告げることは。」(92:1,2)

この世界で「良い」(トーヴ)こと、それは主に感謝することです。

主に賛美の歌を歌うことです。

朝に夕に、主の信実の愛と真実を告げ知らせることです。

私たちは主に感謝し、賛美の歌を歌うために造られました。

だから、主に感謝し、賛美の歌を歌うことが良いこと、素晴らしいことなのです。

そして、私たちは主の信実の愛とその真実を人々に「告げる」ために生きています。

この「告げる」という単語は二節だけでなく、最後の十五節にも用いられます。

聞いてください。喜びをもって彼らはまだ告げ知らせます。『あなたはとても良いお方。あなたは私の美しい力。あなたは正しく、不公平だったことはない。』」(TPT)

主の素晴らしさを告げ知らせましょう。

詩篇 91篇

「いと高き方の隠れ場に住む者、その人は、全能者の陰に宿る。」(1節)

詩篇91篇は新型コロナ感染拡大の中で、最も読まれた聖書の言葉です。

3節で詩人ははっきりと「疫病から」の救いを祈り求めています。

マックス・ルケード牧師は

「恐れを養うなら信仰は餓死する。信仰を養えば恐れが餓死する。」

と言います。

恐れでなく信仰を養わなければなりません。

詩人は信仰告白をします。

あなたは恐れない。夜襲の恐怖も昼に飛び来る矢も。暗闇に忍び寄る疫病も真昼に荒らす滅びをも。」(5,6節)

私たちも詩人のように信仰告白をし、信仰を養う必要があります。

全能なる神は、私たちの隠れ場、私たちの苦難の日の砦です。

日々神の御翼の陰に身を置くならば、私たちは何も恐れる必要はありません。

「隠れ場」(シークレット・プレイス)をメッセージ訳は「臨在」と訳しています。

神の臨在の中に生きる者は「神よ、あなたは私の避け所。私はあなたを信頼し、安全です」と宣言しましょう。

※ 本日(4/1)の祈祷会は、YouTubeの配信のみとなっています。

詩篇 90篇

「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。」(90:12)

山々が生まれる前から、地と世界を、あなたが生み出す前からとこしえから、とこしえまで、あなたは神です。」(2節)

と詩人は歌うように、神は永遠に神です。

しかし、私たち人間は儚い存在です。

朝、花を咲かせても、移ろい、夕べには、しおれて枯れています。」(6節)

ですから詩人の祈りは明確です。

主への恐れをもって生きる「知恵の心」を得ることです。

もちろん、イエス・キリストを信じる者には永遠のいのちが約束されています。

しかし、この地上においてその日々は限られています。

神のみこころをこの地上で成し遂げることができる時間は限られています。

ですから、そのことを認識し、生きることが勧められています。

詩人は祈ります。

あなたの奇跡を再び見せてください。あなたが有名な栄光の不思議を、次世代に見せてください。」(16節TPT)

詩篇 89篇

「私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。」(89:1)

「主の恵み」と訳されたのは今年のキーワード、「主の信実の愛(へセド)」です。

「神の「信実の愛」とその「真実」は永遠」と賛美することは詩篇のテーマです。

ところが、この詩篇の後半部(38-51節)にこんな言及があります。

このようにおっしゃった神が、どうして彼を拒絶し、お捨てになるのですか。なぜ、王として選んでおきながら、こんなにもお怒りになるのですか。あなたは、ダビデとの契約を解消なさったのでしょうか。その王冠をはく奪しておられるではありませんか。」(38,39節LB)

バビロン捕囚によってダビデ王朝は途絶え、神の契約は廃棄されたかのように見えました。

しかし、「神の「信実の愛」とその「真実」は永遠」でした。

だれが、墓から自分のいのちを救い出せましょう。」(48節LB)

とありますが、イエスが墓からよみがえられました。