2サムエル 3章

「これらはヘブロンでダビデに生まれた子どもである。」(6節)

聖書には、はっきりと

「多くの妻を持ってはならない。」(申17:17)

と、一夫多妻を否定しています。しかし、ダビデは多くの妻をもってしまい、それが多くの問題を彼の人生に引き起こしました。しかし、聖書はダビデの失敗を隠すことなく、そのまま記録しています。私たちは、神様が完全な人しか用いることができないと思います。しかしダビデという人物は本当に不完全な人でした。神様に対する心がある限り、神様は不完全な人を用いてくださいます。この事実は私たちに人に対する健康な見方を与えてくれます。人は私たちを失望させることがあります。人は不完全であり、失敗することがあります。英雄視されるダビデも、不完全な人間でした。ですから、私たちは人ではなく、イエス様に焦点を合わせなければなりません。イエス様だけが完全なお方だからです。

※ 明日のSSCの第三礼拝は、町田で15時からもたれる合同聖会(ゲスト:吉村美穂、メッセージ:小山牧師)に合流するためお休みです。

1サムエル 31章

「ヤベシュ・ギルアデの住民が、ペリシテ人のサウルに対するしうちを聞いたとき、勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、」(11,12節)

ヤベシュ・ギルアデの勇士たちは、命をかけてサウル王の死体を取りにいったとあります。彼らはどうしてそこまでしたのでしょうか?サウルが王になって、最初にサウル王が助けた人々がヤベシュの人々でした。(11章参照)彼らはそのことに対する感謝を忘れなかったと考えられます。聖書は言います。

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)

イエス・キリストは、文字通り私たちのために身代わりに十字架にかかられ、いのちを与えてくださいました。感謝を忘れませんように。

※ 小山牧師は、本日のCGNTVのリビングライフにも出演しています。YouTubeでご覧になれます。リンク先は、ここをクリック。

レビ記 24章

「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。」(20節)

償いの義務に関する有名な律法ですが、キリストは本当の意味をこう語っています。

「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38,39)

もともとレビ記で言いたかったことは、度を超えた復讐の制限でした。復讐の連鎖は何も生み出さないからです。キリストは自分を嘲る人々に嘲り返すことはしませんでした。自分に唾を吐く人に、唾を吐き返しませんでした。自分を裏切った人々に、裏切り返すことはしませんでした。ご自分を否定し、無視する人類を救うために十字架の上で死んで下さいました。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)

レビ記 15章

「・・・自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。」(5節)

洗濯をすることも、水浴することも、衛生上大切なことであることは現代に生きる私たちには何も問題がない内容だと思います。宗教的にも、水を浴びて身を清めるという概念は、理解できないことではないと思います。しかし、聖書には

「みことばにより、水の洗いをもって、」(エペソ5:26)

という箇所があります。私たちは聖書のみことばによっても洗われる必要があると言います。イエス様は言われました。

「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」(ヨハネ15:3)

キリストの十字架の血潮によって、キリストを信じる者は、水のバプテスマに象徴されますように、すでにきよくされています。そして、日々の生活の中で、聖書のみことばに耳を傾け、黙想し続けることによって、私たちはきよめられていくことを覚えたいと思います。

エステル 8章

「王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」(8節)

聖書の福音を理解するためには、この原則を理解する必要があります。「罪の報酬は死である」という文書も誰も取り消すことは出来ません。ですから、取り消す代わりに、別の文書が必要でした。「罪のない者が身代わりに死ぬ時、その者を信じる者の罪はみな赦される。」という文書です。私たちはみな、滅びるべき存在でした。サタンにだまされた私たちはみな、死ぬべき存在でした。しかし、キリストが私たちのために身代わりに死んでくださったがゆえに、キリストを信じる私たちの罪は帳消しにされるのです。このクリスマス、改めて、イエス・キリストが私たちのためにこの地上に生まれた意味を考えたいと思います。

世の人 忘るな クリスマスは
神の御子イエスの 人となりて
御救い賜える 良き日なるを
喜びと慰めの おとずれ 今日ここに来たりぬ

Ⅰ歴代誌 11章

「ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、彼とともに全イスラエルに対する彼の王権を強固にし、イスラエルについての主のことばのとおりに、彼を王とした人々である。」(10節)

 イエス・キリストは「ダビデの子」と呼ばれました。ダビデの王権は、神からの王権であり、預言者サムエルが油を注がれた時点で、彼は王でした。しかし、ダビデの勇士たちが彼の王権を強固にし、彼を王としたと言います。イエス・キリストは十字架で私たちのために死なれた時、暗やみの力に対して勝利をとられました。復活というのはその証拠です。イエス・キリストが王であることには変わりはありませんが、私たちはこの地上において、イエス・キリストの王権を強固にしていく使命があります。そのためには、まず、自分自身がイエス・キリストを王としていく必要があります。口先だけではなく、生活において、日々、イエス・キリストを王として生きていくことが求められています。

Ⅰ歴代誌 7章

「彼女はみごもって男の子を産んだ。彼はその子をベリアと名づけた。その家がわざわいのさなかにあったからである。」(23節)

  ベリアとは、災いという意味です。ベリアの父、エフライムの二人の子は、律法を犯して殺されてしまいます。その反省も兼ねて、生まれた子に「災い」とつけたのです。興味深いことは、この子孫から、モーセの後継者、ヌンの子ヨシュアが生まれるのです。神は大きな罪を犯した者の子孫を用いて、重大な任務につかせたのです。私たちは弱く、失敗を犯しやすい者です。しかし、キリストは、私たちが悔い改めるならば、私たちを赦し、もう一度チャンスを与えてくださいます。キリストは、ご自身のもとに来られる者たちに言います。「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのだ。」(マタイ9:2口語訳)失敗は終わりではありません。神はセカンドチャンスの神です。キリストの中でマイナスはプラスになります。

ルツ 2章

「モアブの女ルツはナオミに言った。『どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。』すると、ナオミは彼女に、『娘よ。行っておいで。』と言った。」(2節)

 スポルジョンの「朝ごとに夕ごとに」にこの箇所についてこんなコメントが書いてあります。「力を落として悩むクリスチャンよ。来て、今日、広大な神の約束の畑で落ち穂を拾え。そこにはあなたの願いを満たすたくさんの約束がある。(中略)落ち穂はあなたの目の前に置かれている。それを拾い集めよ。恐れるな。ただ信ぜよ。これらのすばらしい約束をつかみ、黙想によってもみがらを取り去り、喜びをもってそれを食べよ。」ルツの信仰は受動的ではなく行動的でした。ルツは落ち込んで、ナオミと一緒にあわれみをただ待っていたわけではありませんでした。私たちも聖書を開いてみことばを食べていく必要があります。