こころをさわがせず

先週水曜日、ショッキングな連絡が入りました。御殿場純福音キリスト教会の牧師婦人・中見はるみ先生が天に召された、という知らせです。笑顔でご挨拶くださっている姿が思い出され、いまだに実感がありません。中見透先生をはじめご家族、教会の皆様の悲しみを思うと言葉もありませんし、TPKFイーストの中で数少ない牧師婦人の一人でもありましたのでこれからのことを考えると不安が押し寄せてきます。
イエス様はご自分の『死』が目の前に来たことを悟った時、弟子たちに言われました。

「あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。」

「あなた方は互いに愛し合いなさい。」

ご自分が十字架への道を歩むときがすぐそばまで来ていたこの時、イエス様だって平気であったはずがありません。しかしイエス様の言葉と行動は愛に満ちたものでした。わたしの心は動揺し、悲しみ、ふさいでいますがイエス様の置かれていた状況を覚えつつ、御言葉をかみしめたいと思います。(小山晶子牧師夫人)

使徒 13:13-41

「ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで先祖の仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。」(13:36)

リック・ウォーレン先生は、この箇所を通して人生の方向性が永遠に変えられたと言います。このみことばを読んだ時、どうして神がダビデを『わたしの心にかなった者』と呼ばれたのかを悟ったと言います。ダビデがそう呼ばれたのは、彼が神の目的に全生涯を捧げたからだと。また、これほど素晴らしい墓碑銘はないと言います。「〇〇は、この時代にあって神の目的に仕えた。」過去の人も、未来の人も、今の時代に生きることはできません。この時代にあって神の目的に仕えることができるのは、この時代に生きている私たちだけです。神は私たちをこの時代のために造られました。この時代にあって、神の目的に生きることができますように。

イエス様のひつじ

いまデボーションでヨハネの福音書を読んでいます。10章のイエス様の

「羊は彼(イエス様)の声を知っているので彼についていきます。」

という言葉をここ数日ずっと黙想しています。「声」の重要性をとても感じているからです。きっかけはうちの猫たち。ちゅーるという猫用のおやつをあげる時わたしはちゅーるのコマーシャルの歌を歌っています。歌い始めの言葉だけで猫たちはものすごい勢いで私の周りに集合するのです。けれども最近、私が歌わないと同じ歌を歌っても猫たちが反応しないということに気付きました。息子たちや夫、実際のコマーシャルの音などで試してみたのですが、それらには全く無反応なのです。私の声だから、集まってくるのです。その猫たちの様子を見ながら、この聖書の箇所がさらに私にとって意味深いものとなりました。イエス様の声を知っている、とは他の声と迷いがまったくないということだと思ったのです。だから惑わされることもありません。そうなりたいなあと思います。何度も何度もイエス様の声を聴き続けましょう。(小山晶子牧師夫人)

使徒 7:44-8:3

「こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」」(7:56)

ステパノは

「聖霊に満たされていた」(7:55)

と聖書は言います。しかも、

「神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て」

とあるように、神秘的な体験までしています。ところが人々はステパノのことばに耳を傾け、悔い改めるどころか、耳をおおい、石を投げつけ殺してしまいます。しかし、ステパノは、そんな彼らを呪うどころか、

「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」

ととりなし、天に召されていきました。このステパノの姿に聖霊に満たされた人の姿を私たちは見ます。私たちは神がなされることのすべてを理解することはできません。しかし、この出来事が歴史上、非常に重要な転換点となったことは確かです。聖霊に満たされた人は、この地にキリストの愛を現わします。キリストの愛は憎しみの連鎖を打ち砕くことをステパノは証しました。

動悸ふたたび

通院が始まってちょうど1年。
ずいぶん症状が良くなってきたということで今まで飲んでいた薬の量が半分になりました。けれども貧血の体質が良くなっていない、ということでサワイという薬が追加となったのですが、どうもその薬が合わないらしくとにかく体のあちこちが痒い。そのうえ動悸がするようになってきてしまいました。明日から飲むのをやめようと思っているのですが、一年前は寝ても覚めてもこういう状態だったので、ああ、あのころに比べてほとんど動悸がしない生活をしてこれていたんだなあと感謝の気持ちでいっぱいになりました。のど元過ぎれば、というかよくなってしまうとそんなことなかったのように生活をしてしまいますが、神様がどこから自分を助け出してくださったかを思い起こすときに幸せな気持ちになります。痛みや苦しみがなければ振り返って感謝する機会はもしかすると減ってしまうのかもしれません。
『わが魂よ。主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。』 (小山晶子牧師夫人)

使徒 2:22-47

「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。」(43節)

初代教会の特徴の一つは「恐れ」でした。神に対する健康的な「恐れ」が生じた結果、多くの不思議としるしが行われていたという事実を、私たちは心に留める必要があります。もちろん、神は恵みに満ちておられますが、同時に聖なる神です。C・S・ルイスはナルニア物語でアスランというライオンでこの点を描写しています。物語の中でビーバーはこう表現します。

「もちろん、あの方は安全ではありません。けれどもよい方なのです。」

イエス・キリストは私たちにとって安全な方ではなく、よい方という認識はとても重要です。なぜなら、私たちはイエス・キリストを恐れ、ひざまづくべき存在だからです。

「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)

ひめゆりの塔

今回の沖縄滞在の折、ずっと行きたいと思っていたひめゆりの塔を訪れることができました。幼いころ彼女たちを題材にした映画を見たことがあり、様々な場面が私の脳裏に鮮明に焼き付いていました。実際に使われていた沖縄陸軍病院第3外科豪は入り口をのぞき込んでも真っ暗で、皆がはしごを使って上り下りしていたことを知り愕然としました。米軍が沖縄に上陸し、戦局は悪化の一途を辿り、現在ひめゆりの塔が建っている第3外科豪は終戦間近の6月19日朝の攻撃で96名のうち89名が死亡しました。沖縄戦での日本の死者は12万人以上。アメリカ軍の死者は2万人以上。洗脳教育の恐ろしさ、リーダーの責任の重さを今まで以上に感じる機会となりました。不完全な私たち人間が、クリスチャンが、どうすれば地の塩・世の光としてこの世界の希望となることができるのか。沖縄戦での数々の証言を資料館で読みながらイエス様にのみ希望があることを、イエス様にしか希望はないことを心に刻む、静かな祈りの時間となりました。
(小山晶子牧師夫人)

読谷村での思い出

今回で5度目の沖縄訪問となりましたが、どんなにスケジュールがタイトでも必ず訪問しているのは沖縄中部読谷村にあるやちむんの里です。すでにセミが鳴き、強い日差しの中北窯という工房にお邪魔し、1800度にもなるという焼き物の窯を見学させていただきました。最初にリラメンバーで訪問した時には赤ちゃんだった大将の息子さんが後継ぎとして立派に成長している姿に驚き、時間の経過を感じるとともに「続けること」の大切さを改めて教えられました。ろくろを回しているスタッフの方にいろいろと質問をしてみました。「作っている最中に指紋がついてしまうことはありませんか?」と尋ねると、「目には見えないかもしれないけどついていると思います。」とのこと。主は陶器師で私たちはその手にある粘土だと聖書は語っていますが、陶器師がどれほど神経を使い、作品を作っているかを見る時に神様の思いを感じることができるのです。23年前にここで賛美した『空』を思い出しながら、23歳になった息子さんのつくったカップを購入しました。(小山晶子牧師夫人)

アウェーな感じ

沖縄での数回のコンサートを控え、中部北谷にある宿泊施設に滞在しています。海に面したかなり大きな施設なのですが、宿泊客のほとんどがアジア系の外国の方々。エレベーターでも食堂でも日本語が聞こえてきません。まるで外国に来たかのようで少々戸惑っています。そんな中先ほど朝食帰りにエレベーターに乗ったところ、スーパーマンの格好をした2歳くらいの男の子とお母さんと一緒になりました。その子の格好があまりにも似合ってたので思わず日本語で「スパーマン、かっこいいね!」と声を掛けたらお母さんに「うわー、日本人の方に会えてホッとします!ここ、アウェー感半端ないですよね!」と感激されてしまいました。そのときふと、思いました。天国ではこういう状況はいやだな、と。言葉が通じないと言うことはないと思いますが、「天国で久しぶりに日本の方に会いました!」なんて言われたら悲しすぎます。そんなことにならないように、イエス様を伝えてきます。与えられた使命を全うできるように祈り、支えていただければ幸いです。 (小山晶子牧師夫人)

おかあさん、ありがとう。

お母さんがいない人は、この世に一人もいません。全ての人にお母さんがいて、私たちは今ここに存在しています。今日は母の日。もうこの地上にお母さんがいないという方はたくさんおられると思いますが、命をかけてこの世に私たちを生み出してくださった「おかあさん」に感謝することはできると思います。
昨日次男が十七歳の誕生日を迎えました。母親としては次男が神様の導きを求め、御心の真ん中を歩む人生であるようにと願ってやみません。イエス様とおかあさんのマリヤとのやり取りは、聖書の中にいくつも出てきます。十二歳のイエス様が行方不明になった時、カナの婚礼の時、イエス様を連れ戻そうとした時、イエス様が十字架にかかられた時も。マリヤは息子でありメシヤであるイエス様のことをどのような思いで見守ってきたのかな?と思うことがあります。お母さんは子どもの幸せを願うもの。人間的に見ればマリヤは悲劇の母、ということでしょう。でもどのような困難も痛みも共に乗り越えた幸いな人生だったとも思うのです。(小山晶子牧師夫人)