pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

Ⅰ列王記 13章

「彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」こうしてその人をだました。」(18節)

 「個人預言」に対しては最大限の注意を払う必要があります。どんな預言も吟味する必要があります。この箇所に出てくる若い預言者はその場所で食事をしてはいけないと神様から言われていました。ところが、年寄りの預言者がやってきて、神様が彼を連れ帰って食事をさせるように言われたというのです。結局この若い預言者は、年寄りの言葉を信じてしまい、自らの命を落としてしまいます。神様がそのように語ることが出来ないわけではありませんが、「主はこう言われる」という言葉には注意する必要があります。たとえ預言者と言われる人でも、聖書と矛盾する内容であれば信じてはいけません。

「預言ではなく、確かな神のみことばを求めることができますように。」

Ⅰ列王記 12章

「そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』」(28節)

ヤロブアム王はイスラエルの人々のために無理のない礼拝を作り出しました。エルサレムまで行って、主を礼拝するのは大変だし、大きな犠牲を払う行為だから、自分たちの近くに金の子牛の神々を作ったからこれらを礼拝すればいいと。無理のない礼拝、便宜のいい礼拝というのは神様が命じられていることよりも楽で、自我を否定する必要がないので、いつの時代でも人気があります。しかし、イエス様は言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)無理のない礼拝、便宜のいい礼拝は、結局は、人々を罠に陥れます。

「楽をすることではなく、いつもイエス・キリストを求めます。」

Ⅰ列王記 11章

「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現われ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。」(9、10節)

 最も賢い王であったはずのソロモン王は、最も愚かな王になってしまいました。彼は神様のみことばに耳を傾けなくなってしまい、すべての歯車が狂ってしまいました。彼はそんな彼の人生を振り返ったのか、晩年にこんなことを伝道者の書に書いています。「わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。」(1:16-:18新共同訳)

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:13)

「神のみことばに耳を傾けます。」

Ⅰ列王記 10章

「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。(7節)

10章は有名なシェバの女王の話です。シェバはアラビアの南西、現在のイエメンの辺り。アラビアの中でも肥沃な地域で、通商の面でも栄えていた地域でした。ソロモンの名声は、それほど遠くまで届きました。シェバの女王の名前が後世まで残ったのは、彼女が自分の目で確かめようとはるばる来たからです。イエス様はおっしゃられました。「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」(マタイ12:42)イエス様を求める者には報いてくださいます。求めましょう!

Ⅰ列王記 2章

「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。」(2節)

 ダビデの時代に、「復活」という教えはありませんでした。「死」というのは神の領域であり、人にはどうすることもできない領域でした。ですからダビデはただ、「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」とだけ言いました。しかし今、イエス・キリストが死の力を打ち破りよみがえられましたから、私たちには栄光の保証があります。私たちがこの肉体を離れる日、私たちは神のみもとにいるのです。(Ⅱコリント5:8参照)私たちは、「子供たちよ、私はこれから主のみもとにいく。主と共にいることは本当に素晴らしい!」と言うことができます。永遠のいのち、栄光の望みがあるということは素晴らしいことです。ダビデがソロモンに語った勧めは私たちにも適用できます。「強くあれ。あなたが造られた目的に生きなさい。神があなたに語ることを行ないなさい。」(メッセージ)

8月の日曜日 August Sundays

5日 ゲスト・メッセンジャー:札場義宣伝道師

9時、10時半、18時

12日 ガラテヤ1:6-:9 「アナテマ」 小山英児牧師

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC) (HC)=聖餐式

19日 ガラテヤ1:10-:24 「ただイエス・キリスト」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

26日 ゲスト・メッセンジャー:塚田献牧師

9時、10時半

18時より 英語礼拝 w/ ジョンT・ワーム宣教師

(Worship Service in English with JohnT Worm at 6pm. 同時通訳あり)

Ⅰ列王記 1章

「一方、ハギテの子アドニヤは、『私が王になろう。』と言って、野心をいだき、戦車、騎兵、それに、自分の前を走る者五十人を手に入れた。」(5節)

 アドニヤは、老いた父、ダビデ王に代わって、自分こそ王位につくべきだと考えました。確かに、彼は周りから見てもふさわしい人物のように見えました。しかし、新共同訳では、彼は「思い上がって『わたしが王になる』と言い」と訳しています。聖書は私たちが思い上がって、自分で自分を高めないように警告しています。「神様は、謙そんな者を特別、祝福してくださいますが、高慢な者には容赦なさいませんから。もしあなたがたが、神様の力強い手の下で慎み深くしているなら、ちょうどよい時に、神様は高く引き上げてくださるでしょう。」(Ⅰペテロ5:5,6LB)

 「主よ、あなたが私を必ずちょうど良い時に引き上げてくださることを信じて、日々、慎み深く歩むことができますように。」

ガラテヤ書 6章

「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(9節)

 この世は完全でもなければ、天国でもありませんので、時には、善を行うことが馬鹿らしく感じてしまう時があると思います。周囲を見て、良いことを行う自分が損をしていると感じる時もあると思います。もちろん、私たちは見返りを求めて善を行うわけではありません。神の国の国民として、神が善であり、善を行われるがゆえに、私たちも善を行うように努めます。しかし、それだけではなく、失望せずにいれば、収穫する時が来ると言います。「あきらめないこと。やめないこと。」

神は私たちの善行をすべて記録しています。人は善行でなく、キリストの十字架によって救われます。しかし、誰も気づいていなくても、あなたが捧げたこと、助けたこと、神はご覧になっておられ、必ず報いられます。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」(使徒10:4)

ガラテヤ書 5章

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされ
てしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そう
すれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(15,16節)

ガラテヤの教会は、偽教師の問題がありました。彼らは使徒パウロの使徒職を疑
わせ、パウロが語る恵みの福音を否定し、旧約聖書に記された律法を守らなけれ
ば救われないと教えました。その結果、ガラテヤの教会の内部でパウロの側に立
つ人々と、偽教師の側に立つ人々で対立が起こりました。しかし、パウロは戦う
ことを勧めませんでした。パウロが与えた解決策は、聖霊によって歩むことでし
た。聖霊なる神様に動機付けられ、聖霊なる神様の導きに生きることでした。自
分がどう思うか、自分がどう感じるかと言った自己中心的な欲望に導かれるので
はなく、聖霊なる神様の導きを求めて生きるということでした。「聖霊様、導い
てください。」

ガラテヤ書 4章

「ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」(7節)

放蕩息子は、子供でなくても、お父さんの使用人の一人であったとしても幸せだということに気づきました。すばらしい主人に仕えることができる奴隷は幸せです。ですから、私たちは神の奴隷でも幸せです。しかし、キリストを信じる者は、奴隷ではなく、子としてくださると言うのです。「神の子」というアイデンティティは、私たちの人生を変えます。神の子として、その特権に感謝して生きているでしょうか?神の子として、その意識をもって一日一日を尊厳をもって生きているでしょうか?何よりも、神の子として、神様を「お父さん」と呼ぶことができるとは、何とすばらしい祝福でしょうか!「天のお父様、イエス様の十字架の御業のゆえに、私を子供としてくださったことを感謝します。神の子としてあなたに喜ばれる生き方ができますように。」