pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

詩篇 23篇

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(1節)

 誰が自分の人生の羊飼いであるかはとても重要なことです。キリストは言いました。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)

私たちが、日々の生活の中で優先的に耳を傾け、その後についていっている存在が私たちの人生の羊飼いです。それは、人とは限りません。ある種の哲学や思想、また、富や名誉などの可能性もあると思います。しかし、キリストは言いました。

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネ10:14新共同訳)

イエス・キリストが自分の羊飼いであるならば、乏しいことはありません。なぜなら、キリストは私たちのことをすべてご存知な上で導いてくださっているからです。

「主よ、いつもあなたに耳を傾け、ついていけますように。」

詩篇 22篇

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」(1節)

 詩人の体験からも神の不在を感じることは、一般的なことであることを私たちは学びます。信じていても見捨てられたように感じることがあります。賛美を捧げていても疑いをもってしまうことがあります。聖書を読んでいても、暗闇を感じてしまうことがあります。実際、イエス・キリストが十字架における救いの御業を成し遂げる時に、この詩人と同じ祈りを捧げました。そして、キリストがこの箇所を口にされたことを通して、私たちは今、不在と感じるその所に、神は確かに存在され、神の御業が確かに成し遂げられていることを知ることができます。逆境は、神が私たちを見捨てられたということではなく、このことを通して神の栄光が現わされるということです。

「主よ、あなたの栄光が現わされますように。」

詩篇 21篇

「主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。」(13節)

 私たちの信じている神様は、力ある神様です。死の力を打ち破るほどの力あるお方です。LBでは、こう訳しています。

「私たちは、向かうところ敵なしの主を記念して、歌を書きとどめます。」

このお方に頼りきっている人は、どんなに幸いなことでしょうか。7節にこうあります。

「王は主により頼んでいるので、つまずいたり倒れたりすることは絶対にありません。あらゆる神々にまさる神様の不変の愛に、頼りきっているからです。」(LB)

永遠に変わることがない、神様の愛を信頼し、力ある主により頼んでいきましょう。

 「力ある主よ、あなたの勝利が私の人生にますます見ることができますように。あなたの永遠に変わることのない愛に、私は身を委ねます。」

詩篇 19篇

「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」(7,8節)

「みことば」の同義語がここで並べられています。聖書のみことばは、「完全」であり、「たましいを生き返らせ」、「確か」で、私たちを「賢く」します。みことばは「正しく」、「人の心を喜ばせ」、「きよく」、「人の目を明るく」します。ただ、神のみことばだけを聴いて、みことばにどっぷり浸かることによって文字通りたましいを生き返らされたという人がいます。この方は今、牧師をしています。聖書のみことばには、私たちが想像する以上に生きていて力があります。なぜならば、今生きておられる神のみことばだからです。

「主よ、あなたのみことばを与えてください。私たちの心を回復してください。」

詩篇 18篇

「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた」(6節)

この箇所は、ダビデが晩年、自分の生涯を回顧して記した詩篇だと言われています。彼の人生は、危険の連続でした。サウル王に命を狙われたり、息子のアブサロムに命を狙われたり。また、ダビデが洞窟の中に隠れていた時に集まってきてくれた人々は、不満を抱いている人たちの集まりみたいなものでした。しかし、そんな中で彼は、人生の秘訣を見つけ出しました。それは、祈るということでした。壁にぶつかった時、クリスチャンは祈ります。祈ることができるということは、幸せだと思います。もちろん、苦しみの中でなくても、祈ることは大事なことですが、人は、なかなか、追い込まれないと祈れないところがあるのもまた事実だと思います。祈りに追い込まれることは神様が本当に生きておられるということを体験するチャンスでもあります。

詩篇 17篇

「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」(15節)

LBでこう訳しています。

「しかし、私の関心は富にはなく、神様を見ているかどうか、また、神様との間がうまくいっているかどうかにあります。天で私が目覚める時、この上ない満足感にひたるでしょう。神様のみ顔をじかに見るからです。」

私たちのこの世での人生は、この地上の利得に心を奪われるか、それとも、神様を喜びとして生きていくかで、大きく変わっていきます。神様を自分の喜びとして生きていくならば、この世においても、もちろん楽しみを与えてくれるだけでなく、やがて、天の御国に着くとき、「この上ない満足感にひた」ります。ジョン・ストット牧師はこのように言っています。

「地上には大切な義務がありますが、自分が誰であるか、どこに向かっているのかを忘れるほど、そんなものに心を奪われてはいけません。」

信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離すことがありませんように。

詩篇 16篇

「私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。」(7節)

助言を求められた時、まことの助言者である主に求めるように励ますならば、神が語ってくださるという世界を体験できると思います。加藤常昭先生がこんなことを言っています。

「今の若い人たちは聖書を読まないとか、聖書は難しいとか、古い時代の文書であるとか、そう言われているけれども、そんなことはないんだ。今の人たちがなぜ聖書から遠ざかってしまったかというと、今の若者たちに責任があるのではなくて、我々神学者に責任がある。我々神学者がどうしているかというと、『あなたがた素人は、我々専門家が説明をしないと聖書がわからない人たちだ』と言っている。だから、聖書のある箇所を読んでも、そういう考えを植え付けられている人たちは、これについて専門家が語っている文章を読まないとわからない。」 

牧師でなくても、専門的な教育を受けていなくても、日々、聖書を開くならば、神様が必ず、私たちに語ってくださいます。

詩篇 15篇

「このように行なう人は、決してゆるがされない。」(5節)

 詩人は、

「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。」(1節)

と、神に奉仕する者の資格を挙げています。

「それは、非の打ちどころがない生活を送る、誠実そのものの人です。口が裂けても人を中傷せず、うわさ話に耳を貸さず、決して隣人を傷つけたりしない人です。」(2,3節)

耳の痛い言葉が続きますが、リック・ウォーレン牧師がこんなことを言っています。

「もし本気で自分の人生を変えたいと願うなら、聖書に向かわなければなりません。聖書を読み、学び、暗記し、黙想し、適用する必要があります。」

ローマ12:2にこうあります。

「この世の型にはまり込んでしまわないように気をつけなさい。むしろ、自分の心の態度がすべて変わるように、自分自身を神に造り変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころが良いもので、受け入れられ、完全であることを、あなた自身が身をもって証明するようになるのです。」(フィリップス訳)

詩篇 14篇

「愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。」(1節)

 聖書は「神はいない」という態度が、すべての問題の根源だと教えています。メディアは「宗教」が恐ろしいと洗脳しますが、「神はいない」という思想の下で、多くの血が、中国、ソ連、北朝鮮といった共産圏でも流されてきたことを忘れてはいけないと思います。人間を造られた創造主を否定して、すべてを偶然だと片付けてしまいますと、人間の尊厳も、存在意義も見失われててしまいます。神を恐れない人は、「人々をファスト・フードのように扱う」(4節MSG)ことも平気になってしまいます。榎本先生がこんなことを言っています。

「私たちは、言葉では『神はない』とは言わないかもしれない。しかし本当に神があるということを『心の中』、いわゆる自分の存在を賭けて言っているだろうか。」

自分の存在を賭けて、主を呼び求めることができますように。

詩篇 12篇

「主よ。お救いください。」(1節)

ここに、力強い祈りの言葉があります。ここで使われている、「お救いください」という言葉に、「お願いします」という意味の「ナ」を付け加えると、「ホサナ」になります。イエス様がエルサレムにロバの子に乗って入城するときに、人々が「ホサナ!」と叫んだと記されていますが、「お救いください。お願いします!」という意味があります。「お救いください」とも訳せますが、「主よ。助けてください。」とも訳すことができます。マタイ14章でペテロが溺れたとき、叫んだ祈りがこの祈りです。

「主よ。助けてください。」

イエス様は、この叫びを聞かれて、「すぐに手を伸ばして、彼をつかん」だとあります。追い詰められた時、「主よ。助けてください。」と主を呼び求める時、私たちは神様の現実を体験することができます。ちいろば先生こと榎本保郎先生はこう勧めます。

「よく『神様が分からない。神様が分からない』と言う人がいますが、…神様の言葉に聴き従って御覧なさい。」