pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

箴言 5章

「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかしその終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。」(3‐4節)

「他国の女」と記されていますが、誘惑はまさに、サタンが人間を滅びへといざなう常とう手段であると思います。まるで良いものであるかのように私たちを誘惑しながら、最後は永遠の滅びへと落とすのです。どのようにして、わたしたちはこのサタンの罠を見分けることができるのでしょうか。エペソ人への手紙の中に素晴らしいガイドラインが記されています。

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。私たちの格闘は・・・主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。・・神のすべての武具をとりなさい。(6章)』

箴言 4章

「父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。」(4節)

  子供は、親が命令するのは、自分の楽しみを奪うためだと思いやすい傾向があると思います。しかし、実際は、親は子の人生を思うがゆえに、いろいろとしつけるのです。神様の命令も同じです。「私の命令を守って、生きよ」とあるように、私たちが生き生きと生きることが出来るように、神様は私たちに命令を与えられます。神の命令は、私たちを縛るのではなく、私たちを自由にしてくれるのです。スポーツは、ルールを守ってしなければ、楽しむことはできません。サッカーをしているのに、急にラグビーのようにボールをもって走り出す子がいたら、全然楽しくなくなってしまいます。同じように、神の命令は、私たちが人生をより楽しむためにあるのです。

「主よ、あなたのみことばを感謝します。あなたのみことばを守ることができますように。」

箴言 3章

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(5、6節)

  私たち人間の一番の問題は、自分の悟りに頼ってしまうことです。人生を生きていく中で積み上げてきた悟りを、何世紀にも渡って神のみことばとして様々な文化圏の人にも語り続けている神の御言葉よりも優先してしまうのです。私たちは謙遜になって、主を認める必要があります。自分の歩む道すべてに、主を認める必要があります。主を歓迎し、主の導きを日々求めること、これは、私たちの人生の生命線となります。

 「主よ、あなたを認めます。主よ、私の人生を導いてください。私は自分の経験してきた悟りに固執しません。それよりも、あなたの御言葉を優先させます。主よ、導いてください。」

箴言 2篇

「正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。」(21節)

 リビングバイブルではこの箇所をこのように訳しています。

「人生を思う存分楽しめるのは正しい人だけです。」 

神様との関係が正しくない時、わたしたちはそれ以外のすべてが物質的にも精神的にもたとえ満たされていても、心のどこかに隙間を感じていると思います。イスラエル人はあいさつに「シャローム」という言葉を使いますが、この言葉には『神様とあなたのシャローム(関係)は今日いかがですか?』という意味があるそうです。あなたと、かみさまとの「シャローム」はいかがですか?もし、告白していない罪があるならば、いま神様に告白し、赦していただいてもう一度神様との正しい関係に入れていただきましょう。もし、赦せない思いを抱えているなら、その人を赦す決心を祈りをもって告白し、神様との正しい関係に戻りましょう。

箴言 1章

「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、」(20節)

LBでは今日の箇所をこのように訳しています。

「知恵は町の中で叫んでいます。」

ユージーン・ピーターソンという神学者はこんなことを言っています。

「箴言は、人生のあらゆる詳細が永遠の重要性があるという聖書の声明です。」

聖書の神様は、私たちの宗教的側面しか関心がないというお方ではありません。私たちの日々の生活も、重要なものとして関心をいだいておられるのです。家族生活は、信仰生活と同じ真剣さで聖書は扱います。ですから、聖書は信仰面だけではなく、生活面においても私たちの規範となります。聖書は「町の中で」叫ぶ声とあるように、生活の現場に関わるものです。

「では、どうしたら物事がよくわかるようになるでしょう。それには、まず神様を信じ、神様を大切にすることです。」(7節LB)

詩篇 150篇

「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(6節)

 賛美の歌を歌うことは、単なる音楽以上の意味があります。聖書は、主を賛美することを命じています。つまり、主を賛美することは、単に歌を歌うこと以上に意味があるのです。ですから、最高の賛美を神様に捧げる姿勢が大事になってきます。いつも、どうしたら最高の賛美を神様に捧げられるか考えることは素晴らしいことです。教会として、賛美を充実させるためにいろいろな設備を充実させることも大事なことです。個人として、賛美を神様にいつもささげることができるようにいろいろな賛美のCDを聴いたりして覚えることも大事なことです。賛美をささげるためには、受け身の姿勢にならず、積極的に捧げていく姿勢が大切です。 

「主よ、いつまでもあなたをほめたたえ続けることができますように。」

詩篇 149篇

「主は、ご自分の民を愛し、」(4節)

新共同訳では「主は御自分の民を喜び」、口語訳では「主はおのが民を喜び」と訳しています。主は、ご自身の民を愛されているだけでなく、喜んでおられるというのです。主が喜ばれる主の民に求めていることは、二節にこう出てきます。

「イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。」

つまり、主を喜び楽しむ人々を、主は喜ばれるというのです。賛美は主を喜ぶことでもあります。賛美は主を楽しむことでもあります。私たちが一生懸命主を賛美している姿を、主は見ておられ、喜ばれているというのです。ですから、朝に夕に、主を賛美しましょう。主を楽しみ、主を喜びましょう。

「主よ、あなたの御名を賛美します。あなたが私たちの賛美を喜ばれていることをいつも心に留めていられますように。」

詩篇 148篇

「彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。」(13節)

 主をほめたたえることは、実は、私たちに命じられていることでもあります。私たちは主を賛美するために存在しています。ですから、主を賛美することを通して、私たちは満たされます。主の御名だけがあがめられることが大切です。主だけがすべての賛美を受けるにふさわしいお方です。教会は、主の御名を何よりも高くするために存在しています。教会の主人公は主であるイエス・キリストです。栄光は主のものです。教会ではいつも、イエス様の素晴らしさが語られるべきです。イエス様以外の誰かがほめたたえられていたら、教会は反省する必要があります。礼拝の時間が終わったとき、「主は素晴らしい!イエス様感謝します。」と思わず口から出てしまうのが教会のあるべき姿です。

「イエス様、いつもあなただけがほめたたえられますように。」

詩篇 147篇

「主は心の打ち砕かれたものをいやし、彼らの傷を包む。」(3節)

心が壊れてしまうかと思うくらい、つらい出来事や悲しい思いを経験することがあると思います。そのようなときを私たちはどのように過ごしているでしょうか。嵐が過ぎ去るのをじっと待つように、心が落ち着きを取り戻すまで時間をかけることができればよいのかもしれませんが、それは根本的な解決にはなりませんし、現実には容赦なくやってくる日々の出来事の中で心の処理をする間もないままに過ごしているのではないでしょうか。そんなときにほんの一言でも『神様!』と叫ぶ時間があれば、と思います。私たちの痛みをすべてご存じの主は、私たちがその痛みに気付き、癒しを求めて御前に出ることをずっと待っておられるのです。

『神様。どうぞ私の心の中のこの傷を、あなたの御手で包んでください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン』

詩篇 146篇

「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。」(5節)

 この箇所の前の節には、神様以外の者に頼ることのむなしさが記されています。

『その息が絶えると、その者はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。』

わたしたちは「誰か」や「何か」に安心や安定を求めようとします。しかし、しばらくするとそれらが万能ではないことに気づき、幻滅してしまうこともあると思います。神様は私たちが神様以外の何かに信頼している時、その「なにか」を取り去ってしまうことがよくあります。詩篇の中で、繰り返し神様に信頼することを語っている背景には、イスラエルの民がなかなかそのような生き方をすることができなかった、といえると思います。失敗しながら、神様に正されながら、私たちはきょうも神様にのみ信頼することを学ぶのです。