pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

箴言 16篇

「正義によって得たわずかなものは、不正によって得た多くの収穫にまさる。」(8節)

  天国で一番貧乏な人になるほうが、地獄で一番裕福な人になるよりもはるかに勝っています。モーセは、エジプトの王子として裕福な生活をしていました。しかしモーセは、

「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(ヘブル11:25,26)

神様が私たちに与えてくださるものは、この世が私たちに与えてくれるものよりもはるかに勝っているのです。ですから聖書は言います。

「人をだましてぼろもうけするより、わずかずつでも正直にかせぐほうがましです。」(LB)

「主よ、あなたが与えてくださる栄光の富に、目を向けることができますように。」

箴言 14章

「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(4節)

確かに、牛がいなければ飼葉おけは汚れることはありません。しかし、それでは飼い葉おけの意味がありません。たとえ飼葉おけが汚れたとしても、牛が存在していることに意味があります。同じように、教会も人がいなければ問題は起きないかもしれませんが、人がいなければ教会の意味がありません。たとえトラブルが起こったとしても、様々な人が教会に存在していることに意味があります。私たちが生きている限り、問題がなくなることはありません。しかし、それでも生きていくことに意味があります。LBでは、次のように訳しています。

「働かなければ、手も汚れない代わりに収入もありません。」

すべてのマイナスはプラスになります。

「主よ、私の視点を変えてください!」

箴言 13章

「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。」(10節)

 高ぶり、傲慢は、争いへと導きます。高ぶっている人にはいつも、競争心が満ちています。自分が一番だということを証明するチャンスを探しているのです。争いや口論に巻き込まれているときほど、自分が高ぶっていないか、謙遜に「神様、示してください」と祈り求めることが大事です。高ぶりに勝つことができれば平安が結果としてついてきます。「知恵は勧告を聞く者とともにある」と言います。聖書の知恵はこれです。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Ⅰコリント8:2)

「神様、もし、私の心に高ぶりがあるのならば、それを示してください。あなたの御前にへりくだることができますように。」

箴言 12章

「人は悪をもって身を堅く立てることはできず、正しい人の根はゆるがない。」(3節)

 この世を見ると、悪いことをして成功しているように見える人がいます。しかし、悪をもって身を堅く立てることはできません。悪いことをしていて、人生が安定することはありません。たとえ、しばらくのあいだ大丈夫に見えても、正義は必ず追いついてきます。それは、砂の上に人生を築き上げるようなもので、必ず、崩れ去るときが来ます。正しいことを行うことだけが、しっかりとした土台に築き上げることができる方法です。正しい人の根はゆるぎません。しかし、この世で生きていく中で正しく生きることがばからしく見えるときがありますから聖書は言います。

「正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)

と。

「主よ、いつも正しく生きれるように助けてください。あなたは今、生きておられますから。」

箴言 11章

「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」(25節)

現代訳では今日の箇所をこう訳しています。

「物惜しみしない人は繁栄し、人を潤す人は、自分も潤される。」

寛大に生きることは、聖書的な生き方です。聖書に、こういう箇所もあります。

「気前よくささげる人は、大きな祝福を受ける。」(Ⅱコリント9:6現代訳)

与える人は与えられるというのが聖書が教える霊的な法則です。もちろん、献金の話だけではなく、笑顔や祝福などを惜しみなく人々に与えている人が、大きな祝福を受けます。なぜなら、「気前よく与える」というのは、神のご性質でもあるからです。神は、物惜しみすることなく、私たち一人一人に今日も寛大に与え、私たちを潤してくださっているからです。

「主よ、あなたのように、寛大に、人を潤す者となることができますように。」

 

箴言 10章

「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」(12節)

 私たちの人生を破壊するのは憎しみの力です。誰かがこのようなことを言いました。「サタンは私たちに憎しみと怒りを植えることによってこの世を地獄にしようとし、神様は私たちの心に愛と赦しを植えてこの世を天国にしようとしている。」神の御子、イエス・キリストは、不当にも訴えられ、嘲られ、十字架につけられました。憎しみを抱いたとしても、決して不思議な状況ではありませんでした。しかし、キリストは言われました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

憎しみは憎しみを生み、憎しみの連鎖はこの世を地獄にするだけです。イエス・キリストの十字架と復活は、まさに、この憎しみの連鎖を打ち破るためでした。神様の愛は、この世を天国へと変えます。そのために、イエス・キリストは十字架で死なれたのですから。

箴言 9篇

「あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。」(8節)

  LBで7節と8節をこう訳しています。

「人をばかにするような者にそれを注意すると、しっぺ返しをくらいます。せいぜいかみつかれるのが落ちです。好意でしても憎まれるばかりだから、かかわり合いにならないことです。しかし、知恵のある人は違います。注意すると、前以上にあなたを愛します。」

親切心で注意したことが、反感を買ってしまったという経験を誰もがもっていると思います。聖書が教える霊的な原則は、聞く耳のある人には教えることに意味がありますが、そうでない人にはしないほうがいいということです。それはまた、「教えやすい心」(Teachable heart)を持つことの大切さを聖書は教えています。自分以外は皆師であると、学ぶ心がある人こそ、知恵のある人です。

箴言 8章

「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。」(11節)

箴言における「知恵」は人格化されて語られます。これは、「知恵」というのが単なる思考の問題ではなく、「生き方」そのものに関わることを示しています。ですから、箴言は一貫して、一時の快楽ではなく、「知恵」を求めることを勧めます。どんな宝よりも、「知恵」を求めることを勧めます。それでは、どこでまことの「知恵」を見いだすことができるのでしょうか?新約聖書にその究極的な答えを見ることができます。

「キリストは神の力、神の知恵なのです。」(Ⅰコリント1:24)

もし、本物の知恵を求めるならば、私たちはイエス・キリストとの関係からはじめなければなりません。イエス・キリストとの関係は、どんな宝にもまさり、何も比べることはできません。

「主よ、あなたは、銀よりも貴い。

主よ、あなたは、金よりも価値がある。

主よ、あなたはダイヤモンドより美しい。

あなたに比べうるものは何もない」

箴言 7章

「私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。」(2節)

 わたしたちは瞳を大切に扱います。目は、私たちが生きていくうえで大事な器官である、ということ以上にとてもデリケートな部分だからです。目に虫や小さな砂が入ってしまうだけでも体全体、時には精神的にも影響を与えます。目に対してこれほどの神経を使っているように、神様の御言葉に対して私たちは神経を使って耳を傾けているでしょうか?御言葉が悪魔に持ち去られないようにとしっかりと守っているでしょうか。どのようにして私たちは神様の教えをまもることができるのでしょうか。それは、『それほど大切なものである』ということを日々意識するということではないかと思います。御言葉をぞんざいに扱うのではなく大切にしましょう。

箴言 6章

「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。」(16節)

この箇所には、神様の憎む行いが具体的に記されています。それをLBではこのように訳しています。

「神様のきらいなものが六つ、いいえ七つあります。なまいきな態度、うそをつくこと、人殺し、悪だくみ、悪事に熱中すること、偽証、仲たがいの種をまくことです。」

意識してこれらのことを行っているならば明らかに問題です。しかし、残念ながら私たち人間は無意識のうちにもこれらのことを行っていることに、心を留める必要があります。自分は正しいことを行っている、自分の義は絶対だと思っているならば、そういう人はもしかするともっとも神様が『忌み嫌っている』ことを行ってしまっているかもしれません。自分は正しいと思っている時こそ、もっとも気をつける必要がある時だと思います。なぜなら、そんな時、自分の不完全さや足りなさを忘れてしまうからです。