pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

イザヤ 8章

「人々があなたがたに、『霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。」(19節)

 霊媒や口寄せといったたぐいのものは、世界中に存在していますが私たちの住む日本において特に人々の関心が高いように感じます。神様がこれらを忌み嫌う理由は、生ける神ではなく、死人に伺いをたてようとする姿勢です。『民は、自分の神に尋ねなければならない』と記されていますが、私たちは問題の渦中で、誰に尋ねているでしょうか?祈りに導かれているでしょうか?聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15,16)

イザヤ 7章

「ところが、『エフライムにアラムがとどまった。』という報告がダビデの家に
告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺し
た。」(2節)

 この当時、すでにイスラエルは北と南に分裂していました(北イスラエルと南
ユダ)。そして南ユダ王国に対して、アラム(シリア)と北イスラエルが攻めの
ぼるのですが、南ユダの首都であったエルサレムは陥落しなかったということが
ここでの内容です。つまり、南ユダがこの戦いに勝利をした、ということです。
にもかかわらず南ユダ王国(ダビデの家)の王も民もアラムと北イスラエルが同
盟を結んだといううわさを聞いただけで激しく動揺しました。こういうことは私
たちの人生にもよくおこります。敵を過大評価しすぎてしまうと恐れや不安で
いっぱいになってしまいます。問題を大きくしすぎないように、神の偉大さに目
を向けることができますように。

イザヤ 6章

 「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(8節)

 聖書のみことば、特に今日の箇所は今から約2500年前、神様がイザヤに語られ、記録されたものです。しかし、永遠である神様の御言葉は、今の時もなお私たちに直接語りかけています。だからこそ、この一つの御言葉に応答したたくさんの人々がこの御言葉をしっかりと握り、福音を携えて様々な場所に遣わされて行きました。私たちの祈りは

「ここに、私がおります。」

から始まります。神様はあまねく全地を見渡して、神様のために生きていく人を探しています。神様への応答は、若すぎることも、年をとりすぎていることもありません。過去がどうであれ、自分の能力がどうであれ、神様の求めに応じる準備ができているかどうかが問われます。

イザヤ 4章

「主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」(5、6節)

 この箇所が預言していることは、最終的には、この世の終わりに成就することです。しかし、今、その前味をキリスト教会に見ることができます。この預言が、「会合の上に」(新共同訳では「集会」)と言われていることは注目に値すると思います。信仰生活はキリストとの個人的な関係が大切ですが、教会という集まる所に表される神様の栄光、臨在というものがあります。ですから聖書は警告します。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)

イザヤ 3章

「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。」(1節)

 私たちは、とにかくいろいろなものに頼ろうとします。そして、意識的であっても、無意識であっても自分がよりかかっていたその何かが取り去られて始めて私たちは我に返り、祈りに導かれるということがあると思います。聖歌の236番に、こういう歌詞があります。

「イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ、他は砂地なり。」

使徒パウロこそ、まさにそのことを体験した人です。パウロは、このように表現しています。

「・・・自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」(Ⅱコリント1:9LB)

「イエスさま、あなただけを頼りとすることができますように。」

イザヤ 2章

「その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。」(17節)

 新約聖書の中で使徒ペテロはこのようなことを言っています。

「神様は、謙遜な者を特別、祝福してくださいますが、高慢な者には容赦なさいませんから。もしあなたがたが、神様の力強い手の下で慎み深くしているなら、ちょうどよい時に、神様は高く引き上げてくださるでしょう。」(Ⅰペテロ5:5,:6LB)

人間の問題の一つは、高慢になって、自分があたかも神のように状況を支配できるかのように誤解することだと思います。そして、自分ではどうすることもできないような状況に直面し、へりくだらされ、自分はただの人間であることを知らされます。私たちは、謙遜に、自分が有限な人間であることを認め、神を認め、祈りの人生を歩むことが大切です。今日は主の日、王の王、主の主なる神を認め、礼拝を捧げましょう!

イザヤ 1章

「善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」(17節)

社会正義は、神の国の現われであり、聖書が私たちに求めていることの一つです。自分は悪を行いながら、自分の思い通りに神様が動いてくれないという傲慢な姿勢は、聖書が厳しく非難しています。神様は私たちを愛してくださる恵み深いお方ですが、同時に、全世界を正義をもって治められる義なる神です。また、社会的弱者に対してあわれみの心をもつことも大切に語っています。もちろん、短絡的に何でも援助すればいいということではないことは、社会学的にも認知されていますが、慈しみの心をもち、できることを心がけていくことは、神の国に生きることであり、神様が私たちに求められていることでもあります。
「主よ、どうぞ私たちにあわれみの心、知恵と力をお与えください。」

雅歌 8章

「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」(7節)

雅歌は、今から約2500年以上前に生きていたソロモン王が記したものと言われますが、興味深いことにこのころ既に「愛はお金で買えない」ことを知っていたことが分かります。しかも、ソロモン自身は栄華を極め、欲しいものは何でも手に入れることのできた人物でした。だからこそこのソロモンの言葉は説得力があります。現代に生きる私たちも愛を求めています。ギブアンドテイクの関係ではなく、そのままの自分を受け入れて欲しいという気持ちは昔も今も変わりません。しかし、『神は愛です』とあるように、そのような愛は神にのみ期待できるものです。気仙沼の嶺岸先生は津波ですべてを押し流されてしまいました。しかし神の愛を消すことはできなかったと証されています。

雅歌 7章

「あなたの頭はカルメル山のようにそびえ、あなたの乱れた髪は紫色。王はそのふさふさした髪のとりこになった。」(5節)

 7章の最初から、様々な形容詞を用いて相手を称賛する言葉が続いているため、少々読み進める気力が失われてしまった方もいるかもしれません。また、その形容に使われている言葉がわれわれには馴染みの少ない言葉(例えばヘシュボンの池、カルメル山など)であるため想像がつかない、という方もいらっしゃるでしょう。『あなたの頭は富士山のようにそびえ』などと言う人はいないと思いますが、とにかくこの箇所で感じるのは、自分の持てるすべての言葉を用いて相手をほめることは大切だということです。相手を傷つけたり、不快にさせたり、批判したり、打撃を与える語彙を増やしていくよりも、相手を認め、建て上げる言葉を蓄えたいものです。

雅歌 6章

「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、どこへ行かれたのでしょう。あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。」(1節)

この節は、5章の『愛する方の紹介』に対する更なる応答の言葉です。私たちに適応するとすれば、イエス様の素晴らしさを私たちが余すところなく伝えた時、それを聞いた人々は、『私たちもあなたと一緒に捜しましょう』と応答する、ということであると思います。これは素晴らしい真理ではないでしょうか。
私たち自身がイエス様の中に生き、感じ、体験するならば、その私たちの姿をみて周りの人々に、「イエス様を知りたい」、という思いが生まれるのではないかと思うのです。味わってみなければ、そのおいしさを真に表現することはできません。まず、私たち自身がイエス様を体験していきましょう。