pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

イザヤ 44章

 「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」(3節)

 神様は、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に、豊かな流れを与えると言われます。つまり、この預言を聞いた人たちの目の前には、かわいた地しか見えていなかったということです。現実的に考えるならば、ありえないことを、神様がなされるということです。どんなに行き詰まっていても、希望があります。かわいた地をうるおす水を注ぐことができるお方は生きています。後半部分を、LBではこう訳しています。

「おまえの子供たちには、わたしの霊と祝福とを注ごう。」

目の前の苦労は、次世代への祝福につながります。私たちは目の前の現実に縛られるのではなく、神の視点に生きる必要があります。

今日は主の日。天に目を上げ、神様に期待し、礼拝を捧げていきましょう!

イザヤ 43章

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(4節)

 誰がなんと言おうとも、神の目には、私たち一人一人は、高価で尊い存在だと私たちを造られた神は言います。残念ながらこの世界は、私たちの存在を尊重するよりも、否定することの方が多い傾向があります。悪魔が私たちの存在、人格を否定することによって攻撃するのです。しかし、たとえ「誰も望んでいない」と言われたとしても、「神が望まれたから」私たちは今、存在しているのです。神にとって、私たち一人一人はかけがえのない存在なのです。神は私たち一人一人に将来と希望を与える目的をもっておられます。悪魔はその目的に私たちが生きないように、私たちの存在を否定しようとします。ですから、揺らぐことのない、神の御言葉をしっかりと握りしめる必要があります。神は言われます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」

イザヤ 42章

「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。」(8節)

ここで「主」と訳された言葉は、「YHWH」です。イスラエルの人々は、この神の名を呼ぶのを恐れて、この単語が出るたびに「主」と呼び直していました。イエス様の時代には、すでに旧約聖書はギリシア語に翻訳されていましたが、ギリシア語でも、「主」という意味の言葉に訳されました。興味深いことは、このギリシア語訳の聖書を読んでいた使徒パウロは、こう言います。

「すべての口が、『イエス・キリストは主(YHWH)である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:11)

つまり、イエス・キリストは「YHWH」であるが、父なる神とは別の位格(person)であると言うのです。ここに、聖書の神、「YHWH」は父、子、聖霊の三位一体の神であることが分かります。

イザヤ 41章

 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(10節)

 今日、この箇所の約束を自分のものとして掴んでいただきたいと思います。どんな問題や困難があっても、神様が共にいてくださるという約束を自分のものとしていただきたいのです。LBでは、こんな風に訳しています。

「恐れるな。わたしがついている。取り乱すな。わたしはおまえの神だ。わたしはおまえを力づけ、おまえを助け、勝利の右の手でしっかり支える。」

この約束を携えて、今日一日も歩んで生きたいと思います。使徒パウロも、そのように生きていました。パウロはこのように表現しています。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

神様は言われます。
「恐れるな!」(Fear not!)

イザヤ 40章

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」(28,29節)

イザヤ書は40章から雰囲気が変わります。ですから、学者によっては別の人が書いたのではないかと推測もされています。ちょうど、旧約聖書は39巻あり、40巻から新約聖書がはじまるように、この章から希望を感じるような預言が増えます。今日の箇所をLBではこう訳しています。

「全世界を造った永遠の神様は、絶対に疲れたり、ふらついたりしません。神様の理解の深さを推測できる者は、一人もいません。神様は疲れた者に力を、弱い者に活力を与えます。」

私たちに力を与えてくださる神様を待ち望もうではありませんか。

「主よ、あなたを待ち望みます。」

イザヤ 38章

「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう15年を加えよう。」(5節)

 神様は私たちの祈りだけでなく、私たちの涙もご覧になっておられるお方です。実際、イエス様のこの地上での祈りも、とても感情的であったことが次の聖句からも分かります。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

もちろん、涙を流せばいいという意味ではありません。口先だけではなく、全人格的な祈りを神様は望んでいるということです。神様は流暢な言葉を聞いているというよりも、私たちの心をご覧になっているということです。

「主よ、心からの祈りを捧げます。」

イザヤ 37章

「あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。」(23節)

 アッシリヤ軍は、エルサレムに攻め入ることはできませんでした。彼らはヒゼキヤ王に言いました。

「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。」(10、11節)

しかし、ヒゼキヤ王は、アッシリヤ王の言葉よりも神を信頼することを選び、神が救い出されることを体験しました。歴史的にも、アッシリヤ帝国は、この後、滅亡の一途を辿ります。

今日は、主の日です。私たちもアッシリヤ王のような言葉が聞こえてきても神を信頼し、まことの神のみことばに耳を傾け、礼拝を捧げましょう。

イザヤ 36章

「ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。」(4節)

このアッシリヤ軍がエルサレムを包囲した出来事は、聖書以外にも文献が残っています。ですから、歴史上本当に起こったことであると認められています。この時、まさにヒゼキヤたちは、何に拠り頼んでいるかが試されました。ラブ・シャケはエルサレムの人々に言いました。

「ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。」(15節)

しかし、ヒゼキヤをはじめ、エルサレムの人々は、主を信頼することを選びました。そして、彼らは生ける神の救いを体験しました。

「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブ10:39)

イザヤ 35章

「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」(5,6節)

 バプテスマのヨハネは獄中でイエス様のことを聞いて弟子たちを遣わして、

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

と尋ねさせます。すると、イエス様はこう答えられます。

「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:4-6)

つまり、今日の箇所がイエス様が来られたことによって成就したと言うのです。イエス・キリストの中に答えがあるというのが聖書のメッセージです。

イザヤ 34章

 「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」(16節)

 LBでは、こう訳しています。

「神様の書物を調べて、これからどうなるかに目を留めなさい。神様はただの一項目でも手を抜きません。その地には、つがいでないものはいません。神様がそう命じたからです。しかも神様の御霊は、そのとおりになるように力を入れます。」

イエス様もこうおっしゃられました。

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)

ですから、聖書を調べることは大事なことです。聖書がそう語っているなら、そのようになります。たとえ、今、自分の目にはそう見えなくても、神のことばは滅びることはありません。